抑制のない欲望が、地球を壊すほどまでに暴走し生み出したものではないか。
かつてないほどの人類の危機は、世界を結ぶ。
それが突きつける苦悩と課題は、私たちに新しい行動を促す。
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(自営業はもちろん、会社員なども勤務を勝手に休むわけにいかない)
↓
感染拡大に対応できなくなった医療サービスを受けられなくなる
通常の医療体制なら助かる人でも命を失う
究極の選択、究極の矛盾はこの方向に収斂していくのではないかと思います。
緊急事態宣言が出て都道府県知事に多くの権限が渡されても、休業要請のためには国と協議をしなければならない。
実質的には国が補償を認めないかぎり、強力な人の移動の抑制はできません。
仕事をせざるを得ない人々が外に出ていけば、接触の「8割減」は不可能です。
貨幣を見かけだけでもかまわないから創造し、現金として速やかにバラまかなければ間に合わないのではないか。
急いでいろんな知恵を出し合い、実行すべき時です。
いろんな齟齬や欠陥が生じたとしても、スピードが死命を決します。
すでに今の時点で医療現場は疲労の限界に達しています。
感染爆発以前に、このままのペースで感染が増えても医療崩壊が起きてしまいます。
それだけは絶対に避けなければいけない!
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3月18日AbmaTV
赤木氏の手記を公開した相澤冬樹記者が出演
https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p1765
JUGEMテーマ:ニュース
一年半ぶりの投稿です。
この間はSNSなど仲間内の世界で時おり書いておりました。
仕事をめぐること、日常の生活、それなりにいろいろありました。
相変わらず世界各地への旅もしております。
新型コロナの脅威が広がっている昨今ですが、久しぶりにこちらに書いてみようと思ったのは
そのことではありません。
「無理が通って道理が引っ込む」ことが当たり前になってしまったこの時代。
あまりにも言葉が無力になっていくと書く気力も失せてしまいました。
しかし、無理がまかり通ると人が死にます。
ウンザリしている間に、数多の人の死を見過ごしてきてしまいました。
2年前に森友問題で文書改ざんを命じられた財務省の方が自死されました。
その報道に接しても、頭の片隅にしまっておくだけでした。
いま、その手記が明らかになり、まざまざと私たちの残酷な社会のありようが突きつけられています。
ウンザリしていることも許されません。
手記 平成30年2月(作成中)
○はじめに
私は、昨年(平成29年)2月から7月までの半年間、これまで経験したことがないほど異例な事案を担当し、その対応に連日の深夜残業や休日出勤を余儀なくされ、その結果、強度なストレスが蓄積し、心身に支障が生じ、平成29年7月から病気休暇(休職)に至りました。これまで経験したことがない異例な事案とは、今も世間を賑わせている「森友学園への国有地売却問題」です。
今も事案を長期化・複雑化させているのは、“財務省が国会等で真実に反する虚偽の答弁を貫いていることが”最大の原因でありますし、この対応に心身ともに痛み苦しんでいます。この手記は、本件事案に関する真実等の詳細を書き記します。
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さて、私は何をなすべきか。
ずいぶんと身の回りの環境が変わってしまって・・・
ちゃんと記録は残しておかねばならんな。
2016年9月 母亡くなる
2017年1月〜8月 二度目の鬱病により休職
同年9月 父亡くなる
同年10月 組合委員長退任
思いのほかの遺産相続により戸惑う。仕事を辞めるとしても経済的には問題なしだが、
賃労働者の生活をいつまで継続するか悩む。
今の職場環境に不満なく、辞めるのはもったない感じもする。
その一方で自由な生活を始めたい欲求も強くなる・・・
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いかんいかん
やっぱりこの時期は寝てはおれん。
]]>せっかく長崎へ行って爆心地へも行き、原爆資料館をあらためて見てきたので書いておきましょう。
組合の全国大会が終了したあと、会場が平和祈念公園まで近い距離だったので、ひとしきり歩いてまわりました。
私の場合、広島よりは長崎のほうが来る機会が多いので、何度も長崎の爆心地のあたりや原爆資料館は訪れています。
資料館の常設展のほかに企画展でも、写真や遺品のコーナーを見てきました。
今回と、前回の記事でものせた写真は、資料館の企画展示で見たものです。
しばらく、これらの写真の前で釘付けになって見ていました。いったん資料館をあとにしてから、じつは翌々日に
どうしても気になってもう一度資料館を訪れ、カメラにおさめました。
写真の説明書きによれば1948年〜1949年ころということですから、碑のまわりで遊んでいる子どもたちは
戦争中の生まれということになります。原爆投下のときには、彼らはどこに暮らしていたのでしょうか。
少なくとも写真を撮られたときにはこの近在に住み、「原子爆弾落下中心地碑」のあたりを日常の遊び場所としていたのでしょう。
彼ら自身が被爆体験があるのか、友達や家族が犠牲になったのか、そうでないのか、まったく定かではないけれど、
その場所が、人間の肉体を蒸発させてしまうほどの熱戦で焼き尽くされた地であることを知っていたと思います。
小高い土盛りがしてある塔のまわりで無邪気に遊ぶことは、そこがどんな場所であろうとも子どもの特権でありましょう。
まだGHQの占領下にあるもとで、被爆の実相を広く人々に知らしめることが許されなかった時代です。
それでも昨日のごとく、その日が語り継がれていた時期でもありました。
夏を思わせる子どもたちの服装と晴れた青空が、原爆の落ちたその日につながります。
写真に映っているいる子どもたち。彼らこそ戦後教育の第一世代であり、戦後日本の「平和」を担ってきた世代ではないでしょうか。
戦場から帰ってきた親や兄弟たち、「外地」や「内地」で戦争の辛酸を嘗めてきた大人たちが、この時期たくさんいたはずです。
戦争はいやだ、原爆はいやだ、そんな思いが日本の隅々まで満ちていた時代があったはずです。
戦後が70年も過ぎて
忘れているのではないでしょうか。この私も含めて。みんな忘れているのではないでしょうか。
私たちは、心のどこかで高をくくっていませんか。遠ざかってしまった日々のことを。
それは「いま」を知ろうとしない諦めと無関心に通じる。
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生きている 生きている 生きている
つい昨日まで 悪魔に支配され
栄養を奪われていたが
今日飲んだ“解放”というアンプルで
今はもう 完全に生き変わった
そして今 バリケードの腹の中で
生きている
生きている 生きている 生きている
今や青春の中に生きている
なんて詩を読んでピン!とくる人はいいね。
ブログはだいぶんご無沙汰しておりますが、熱量は決して下がってはおりませぬ。
安田講堂前の集会に日大全共闘が到着して、彼らを迎え入れる学生たちがサアーっと左右に分かれて場所を空ける光景に
涙ぐんで回顧した元日大生の人の姿を忘れない。
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今日は・・・60年の安保条約が自然成立した日でもあるのです。
]]>◎展覧会と講演会のお知らせ
6月7日(火)〜12日(日)まで、東京・根津の「ギャラリーTEN」で、「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山?博昭追悼」展と題して、1960年代から70年代の日本のベトナム反戦闘争を記録写真と資料でふりかえる展覧会を開催します。写真家の北井一夫さんの協力を得て、10・8第一次羽田闘争の弁天橋の連続記録写真を初公開します。
また、会期中の6月11日(土)、「第4回10・8山?博昭プロジェクト東京講演会」を、ギャラリー近くの「文京区不忍通り ふれあい館」で開催します。
本展覧会は今秋(時期未定)、京都精華大学との共催で、同大学ギャラリースペースでも開催します。会期中に、同大学初代学長を記念した「岡本清一記念講座」で、山本義隆講演会があります(詳細は後日発表)。
【ご挨拶】
6月は国会南通用門で22歳の樺美智子さんが亡くなられた月、10月は18歳の弟が羽田で亡くなった月。
私達はこの二つの月に反戦の集いを持ちつつ、来年の「10・8」50周年を迎えようとしています。
「侵略戦争の銃は持たない。反戦の闘いには命をかける」。交わした数少ない弟の言葉の一つです。
戦争できる国へ大きく舵を切った日本で、そうはさせない運動を大きく展開する時に、60〜70年代の反戦運動を直視し、新たな糧とすることは大いに意義のあることだと思います。
展示をご覧下さい。講演会にご参加下さい。
山?建夫(10・8山?博昭プロジェクト代表)
◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山?博昭追悼」展
期日:2016年6月7日(火)〜12日(日) 11:00〜19:00(最終日は18:00まで)
会場:ギャラリーTEN (東京都台東区谷中2-4-2 電話03- 3821-1490)
http://galleryten.org/ten/
主催:10・8山?博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆)
【企画趣旨】
ベトナム戦争は戦争布告がないまま始まり、1975年に終結しました。この戦争をめぐって世界各国で反戦運動が拡がりました。本展は、当時の日本でのベトナム反戦闘争の軌跡を写真と資料で紹介し、現在から未来へつなげようとする試みです。
1965年、米軍による北ベトナムへの空爆開始と南ベトナムへの上陸とともに、ベトナム戦争は本格化しました。ほぼ同時に日本では、ベ平連、三派全学連、反戦青年委員会、高校生運動が誕生し、反戦闘争が活発化しました。翌1966年には、立川基地拡張に反対して、砂川町の農民と全学連・反戦青年委員会の共闘が形成され、農民と学生と労働者との共闘体制は、その後の三里塚闘争にも引き継がれていきます。
ベトナムでの米軍の軍事行動のエスカレーションに応じて、米軍の後方基地としての日本の役割は飛躍的に増大。それに並行して、反戦闘争は日本の戦争加担という事実と向きあっていくことになります。とりわけ、ベトナム戦争への加害者であることの自覚を日本人にうながしたのが、1967年10月8日の佐藤栄作首相の南ベトナムへの訪問強行でした。サイゴンの米国傀儡政権への政治的な梃子入れを目的としたこの訪問を阻止するために、学生・労働者は羽田で闘い、この闘いへの凶暴な弾圧のなかで、京大生・山?博昭君(18歳)が死亡しました。
以後、日本の反戦闘争は激しさを増し、なかでもジャテックの活動は、米軍基地からの反戦米兵の脱走支援、さらには基地内での叛乱をうながす運動へ発展していきます。その後、日本国内のほぼすべての米軍主要基地において、反戦地下新聞が発行されるようになり、無許可離隊や命令拒否が続発するという事態が生まれます。それが世界最強を誇る合衆国の軍隊を内部から弱体化させ、1975年のサイゴン陥落、ベトナム戦争の終結に向かう遠因となったのでした。
この1960年代半ばから10年近くの日本のベトナム反戦闘争は、学生・労働者・農民、そしてサラリーマンから主婦にいたるまで、広範な人々により、重層的な構造と広域的な拡がりをもって闘われました。また自衛隊内部からも反戦の声があげられました。
本展「ベトナム反戦闘争とその時代」は、山?博昭君追悼とともに、かつての時代の一端を残存資料によって再現しようとするものですが、それはたんなる追憶にとどまらず、その時代の経験を後続の世代に継承させたいと願っての企画です。
(展示監修・山本義隆)
【展示内容】
砂川基地拡張反対闘争の記録写真と資料/ベ平連とジャテックの活動記録/日本各地の米軍基地内での反戦地下新聞・機関誌/各地の市民運動の記録/第一次羽田闘争(1967年10月8日)の連続記録写真(撮影・北井一夫)/王子野戦病院反対闘争・佐世保闘争・三里塚闘争の記録写真/ポスター(粟津潔、他)、関連書籍、雑誌、新聞、写真集etc.
*会場では、会期中、毎夕(時間未定)、1960年代から70年代の反戦闘争の記録映画の上映会を開催します。談論風発、討論歓迎。こぞってご参加ください。
◎10・8山?博昭プロジェクト第4回東京講演会
戦争に反対する講演と音楽の夕べ
日時:2016年6月11日(土) 18:30開場、19:00開演
会場:文京区不忍通りふれあい館(東京都文京区根津2-20-7 電話03-3822-0040)
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/shinobazu.html
第1部/講演:「市民が戦争と闘った時代」
講師:和田春樹(元大泉市民の集い代表。歴史家。東京大学名誉教授)
第2部/音楽ライブ「明日」
出演:詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACE
http://voicespace.wix.com/voicespace
小林沙羅(ソプラノ)、小田朋美(ピアノ・ボーカル)、
豊田耕三(アイリッシュ・フルート)、関口将史(チェロ)
参加費:¥1000
主催:10・8山?博昭プロジェクト
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com