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ネット言論の有効性2

きのうは、もっと展開したことを書きたかったのだが、内容的に一区切りついてしまったので独立のエントリーとした。本日はその続編。いちおう仮説的メモ。
当ブログも参加している「人気bulogランキング」などを参照してもらうとおわかりになると思うが、上位はほぼ右派系のブログが独占している。保守系なんて生易しいものではない。中国・韓国大嫌い、靖国参拝何が悪い、「反日市民」は日本から出ていけ、のオンパレードである。
これだけ見ると、9条改憲はいともたやすく達成され、中韓との断交にも突き進みそうな勢いである。圧倒的なネット世論の姿がここにある。・・・と、そうなのか?
一般にリベラルあるいは左派の人間は「競争」に対して淡泊なので、あまりこの手の「ランキング」には参加しない。そのような事情を勘案すれば、ある程度右派の独占状況を希釈して眺めることはできる。「ネット世論」という概念の有効性自体を問う必要もある。ネット上に飛び交う言論を総覧し、全体を眺め渡す「場」はないからだ。誰でも目にするのは「部分」であって「全体」ではない。「国民世論」を概括的に表現する「総選挙」のような装置は存在しないのだ。とはいえ、独立してサイトを運営する書き手の多寡で考えれば、やはり注目しておく必要はあるだろう。「2ちゃんねる」の匿名投稿者と資質において連続性はもちつつ、その主張に対する異論を受け付ける場を継続的にもつという意味では、言説に対する一定の責任を引き受ける姿勢はあるようだ。「部分」から眺めた視野の範囲でも、この状況は看過できない。
問題は、その言説のリアル世界への影響力である。
回路はふたつ。その認識・意見の大衆的伝搬と、現実の政治過程(政党、官僚など)への影響力だ。両者を区別する意味はネット右派言論に限ったことではなく、日本の「代行(おまかせ)民主主義」というシステムに沿ったものである。言い換えれば、既存の政党システムは大衆の意識そのままを必ずしも反映していないし、行政官僚の行う施策も然りである。そのこと自体の善し悪しをここでは問題にしない。現実の構造は、大衆意思に大枠で規定されながらも、施策の具体レベルは政策エリートによって実質の決定をみる。大衆の場からは見えにくいが、経済エリートの意向が大きな影響力をもって介在もする。オーソドックス・マルクス主義の立場では独占資本の意思ということになるだろうが、それが純粋に貫徹するとは思えない。明治期に構築された官僚の主導性は純粋資本主義を発現せず、国民に対する独自の「指導性」を今に至るも堅持しているのだ。
しかつめらしい理論が長くなるのを止めて(笑)、そのふたつの回路とも現状のネット右派言論では、まだ現実過程への影響力をもたないだろう。それらはまだ、組織的な表現をもっていない。彼らの言うような「プロ市民」に相当するような運動体をもっていないし、既存政党勢力への影響力ももちろん持つに至っていない。個々の政治家に対する個人的な声援に留まっている。集会を設定したり団体を運営したりというような経験の蓄積をもたないのだ。そもそもそのような目的意識を持とうとする気配すら見られないようだ。
中国の反日デモに対するカウンター・アクションに、特に目立ったものはなかった。ネット右派世界で渦巻く中国への反発の勢いは、いったいどこへ?と思っていたが、水面下ではこのような動きもあったようだ。

プロ市民の陰謀だモナ(世界の中心でヲチするノケモノ)

中国大使館へ抗議の意思を示すためにデモをしかけようと。ただし暴力反対の姿勢を見せるため「献花」をしましょうという呼びかけだ。それが結局「プロ市民」の仕掛けた罠だと発覚して、不発に終わったという次第らしい。
これはひとつの「点描」に過ぎないが、ここに焙り出される姿は、先導役を受け持つ呼びかけ人がいれば街頭に登場するポテンシャルを持っているということだ。
また、政治スタンスの特徴として「右翼」と同一視されることを嫌う。このことは彼らの非行動性と通じている部分かもしれないが、自らの政治的立場を「一般市民」「圧倒的な国民の立場」などと僭称して、「右翼」「右派」など党派性の自称はしない。その意味では政治的匿名性を好み、「名指し」を嫌うのである。この点ではかつてのファシズム運動とは決定的に違う。大衆運動の拡大・急進化を押し進めて、終局的には権力機構を奪取するという性格・予兆は微塵も見られない。彼らの政治的願望を果たすと思われる体制エリートを下支えする、そのような補完的機能にとどまると言えばいかにも「日本的」と言えようか。
その意思の発現も肉声にはよらず、あくまでネット文字の域から出ようとはしない。森岡政務官の「A級戦犯はもう罪人ではない」発言に対して、事務所が受けたのは批判の電話が多かったようだ。これらに対しても「サヨク連中の動員」という悪罵を投げつける傾向がある。体制の公認ではない組織や運動に対して不信感が強く、その実態以上の影響力を妄想して攻撃的になる。このような恐怖感はいったいどこからくるのか。このへんはよくわからない。
とりあえず現今の政治変数に位置する要素でなければ、放置しておいても差し支えない傾向なのか?彼ら自身は嫌がるだろうが、かの反日デモで暴発した中国の若者たちと近似ないし共通した心性を日本のネット右派の若者たちにも感じる。
天安門の流血の記憶とはつながらない、一人っ子「小皇帝」の世代。インターネットを使いこなす程度の知識と生活の余裕を持ち、消費生活のなかでは憎悪すべき日本製品をしっかりと愛用している。一党独裁のもとでは個人的に上昇しない限り、政治決定のプロセスには参加できない。複雑高度化する都市空間のなか、一人暮らしの部屋でキーボードをたたく若者の風貌は、民族を超えて似たようなものにならないだろうか。
そんな彼らは「愛国無罪」の護符を受ければ、安心して暴徒になれる。国家に対抗した組織を作らなければよいのだ。権力の望むときに動員に応じればよい。
いま心配するとすれば、そんなところだろうか。しかし現今の情勢は、権力にとってもそのような動員を必要としない。必要なのは、もうしばらく長い時間経過のなかでの警戒心だ。
新しいメディアを舞台にしている潮流なので、その意味では予断を許さない。顔の見えない言葉の応酬は、その背後に暴力的感情を蓄積していく。若い世代ほど新メディアへの親和性は高く、被る影響は大きい。


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