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自己批判を要求する世界

きょうの「天声人語」にのっていた話。
東京西郊の公園で虫や鳥を撮影していた男女と、保育園児を引率してきた先生との間で言い争いになった。子どもにチョウを捕まえさせようとした先生に、「羽化したばかりのチョウを捕るのはよくない」と撮影していたグループが抗議し、うちの一人がパトカーを呼んだという話だ。

このコラムの要点は「子どもが昆虫を採取するような行為が自然破壊と言えるのか、むしろ幼い世代の貴重な経験ではないか」ということで、私もそう思う。
ただ、ここでは少し違う方向に考えてみた。
もし、駆けつけたパトカーの警官が、「羽化したばかりのチョウを捕るのはよくない」という告発をきいて保育園の先生を逮捕したとしたら?

荒唐無稽な想定だが、この「羽化したばかりのチョウを捕るのはよくない」というのがひとつのイデオロギーなのだ。
イデオロギーというのは、「自衛隊の海外派兵は日本帝国主義の野望が顕在化したものなのだ」というような、ある種の定型的な修辞をふりまわす左翼の専売特許ではない。「観念の形態」とでも訳すのだろうが、そっちのほうに入り込むと難しいし、私にそんな難しい話をする能力はない(汗)

この話の中での、「何年も前からここで虫を捕ってきた」という先生の主張に反駁する「羽化したばかりの〜」という価値判断は、私たちの日常生活のなかに類例が少なくない。イデオロギーは生活の中にある。だからイデオロギー自体が善だの悪だのということではない。
問題は、「羽化したばかりの〜」というイデオロギーを国家意思として背負う警官が先生を逮捕したり、あるいは心底納得はできぬまま「羽化したばかりの〜」という論理に屈してしまう先生がでてきてしまうかもしれない事態なのだ。

勘のいい方はお気づきかもしれないが、私はここで「スターリン主義」批判を行おうとしている。
警官による逮捕という手段は、ファシストとスターリニストの両方の国家に共通している。両者の社会の背後には強制収容所が配置されていた。ファシズムの場合、支配イデオロギーにまつろわぬ者に対しては肉体的抹殺に向かう。スターリン主義の場合はどうか。
もちろん肉体の抹殺という面がなかったわけではない。むしろ残忍さの点ではファシズムに劣らぬくらいの暴虐で、多くの人々の命を奪った。だが、スターリン主義の特色は剥き出しの暴力というより、人間の内面の支配にある。先述した「心底納得はできぬまま『羽化したばかりの〜』という論理に屈してしまう先生」を動員・体制内化するのが、スターリン主義の特色なのだ。想像しずらいだろうか?だが「あの人、自然を破壊してるのよ」という若い母親たちの指先に包囲されたとしたら、あり得る話ではないか。警官を呼んで逮捕してしまうのは権力体制として確立している場合だが、後者はある同質なイデオロギー空間のなかに閉じ込められている場合に起こり得る。ここで本質的なことは「面従腹背」ではなく、指差された側の人間が、自分を否定する論理を自分の内面に受け入れることなのだ。
念のため言っておくと、こういう「スターリン主義批判」はトロツキズムとは全く関係ない(笑)

ここで連合赤軍事件をとりあげる。あさま山荘での銃撃戦ではなく、そこに至る一連の同志殺しに対してだ。(連合赤軍事件って何?という方は・・こちらを一応参照してください)
市民社会から隔絶した山岳アジトを転々とするなかで、個々のメンバーに自己の「共産主義化」という人間改造が厳しく要求された。実質的な指導部である森と永田の恣意的とすら見える判定で、多くの若者が「総括」され命を失った。あのとき山を降りて逃亡したメンバーもいたが、殺された者の多くは、逃げようと思えばいくらでもチャンスがあったのに逃げなかった。・・・こう書いているだけでも暗鬱な気分に沈んでいく。
そう、殺されていく者すら、自分を殺す「論理」に抗うことができなかった。私が連合赤軍事件を考えるとき、いちばんやりきれないはこの点だ。
スターリンがボリシェヴィキ内部の政敵を葬り去ったモスクワ裁判で、被告席に立った者たちも、ありもしない「罪」を自白し、従容として死刑台に向かった。あれは生まれたばかりの「労働者国家」を損なうまいとする共産主義者の、悲惨な自己犠牲の選択ではなかったか。「総括」された連合赤軍の若者たちと、モスクワ裁判のボリシェヴィキの被告たちは、どこかで同じ心性を有してはいないだろうか。
「スターリン主義」という概念を使って批判を試みるとき、論者によってその内容は少しずつズレてくる。黒目さん「旗旗」へのコメントに寄せているように
我々は、「左翼運動の中で生じる否定的な事象」をひっくるめて「スターリン主義」と名付けてきたようなところがあると思いますが、スターリンやスターリンの時代の事柄に、それらの事象の由来を全部求める、というのは理屈にあわんのではないか、という気がします。
という立場に私は同意する。
連合赤軍事件を、自らに突きつけられた課題として引き受けるかどうか、左翼の内部でも様々に違いが現れてくる。「路線上」のちがいから、他人事のように「誤り」を指弾する立場のものもある。しかし、新左翼運動のなかで真摯にあの事件を見つめようとした者ほど、暗闇の深さに心を引き裂かれたのではないだろうか。
アドルノは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言った。日本左翼運動にとって、連合赤軍事件はそのような位置にあるのではないか。もっと広げれば、イデオロギーを「自覚的に」組み入れて活動する、すべての運動に問われる普遍的な問題ではないか、と思う。

人間解放をめざす運動のはずが、ここまで無惨な人間の圧殺をひき起こすのは何故なのか。私の「スターリン主義批判」の最深部には、この問いがある。


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きょうは採取する?
ただ東京へ行為したよ♪










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