日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
思いのほか多忙になってしまった8月。いつもは戦争をふりかえる記事を書いていたのですが。
せっかく長崎へ行って爆心地へも行き、原爆資料館をあらためて見てきたので書いておきましょう。
組合の全国大会が終了したあと、会場が平和祈念公園まで近い距離だったので、ひとしきり歩いてまわりました。
私の場合、広島よりは長崎のほうが来る機会が多いので、何度も長崎の爆心地のあたりや原爆資料館は訪れています。
資料館の常設展のほかに企画展でも、写真や遺品のコーナーを見てきました。
今回と、前回の記事でものせた写真は、資料館の企画展示で見たものです。
しばらく、これらの写真の前で釘付けになって見ていました。いったん資料館をあとにしてから、じつは翌々日に
どうしても気になってもう一度資料館を訪れ、カメラにおさめました。
写真の説明書きによれば1948年〜1949年ころということですから、碑のまわりで遊んでいる子どもたちは
戦争中の生まれということになります。原爆投下のときには、彼らはどこに暮らしていたのでしょうか。
少なくとも写真を撮られたときにはこの近在に住み、「原子爆弾落下中心地碑」のあたりを日常の遊び場所としていたのでしょう。
彼ら自身が被爆体験があるのか、友達や家族が犠牲になったのか、そうでないのか、まったく定かではないけれど、
その場所が、人間の肉体を蒸発させてしまうほどの熱戦で焼き尽くされた地であることを知っていたと思います。
小高い土盛りがしてある塔のまわりで無邪気に遊ぶことは、そこがどんな場所であろうとも子どもの特権でありましょう。
まだGHQの占領下にあるもとで、被爆の実相を広く人々に知らしめることが許されなかった時代です。
それでも昨日のごとく、その日が語り継がれていた時期でもありました。
夏を思わせる子どもたちの服装と晴れた青空が、原爆の落ちたその日につながります。
写真に映っているいる子どもたち。彼らこそ戦後教育の第一世代であり、戦後日本の「平和」を担ってきた世代ではないでしょうか。
戦場から帰ってきた親や兄弟たち、「外地」や「内地」で戦争の辛酸を嘗めてきた大人たちが、この時期たくさんいたはずです。
戦争はいやだ、原爆はいやだ、そんな思いが日本の隅々まで満ちていた時代があったはずです。
戦後が70年も過ぎて
忘れているのではないでしょうか。この私も含めて。みんな忘れているのではないでしょうか。
私たちは、心のどこかで高をくくっていませんか。遠ざかってしまった日々のことを。
それは「いま」を知ろうとしない諦めと無関心に通じる。