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歴史は新しくなる

中学のときだったか高校のときだったか、第五福竜丸の映画を学年全員で観させられたことがある。宇野重吉が久保山愛吉さんの役で出ていた白黒の作品である。それは憶えているのだが、その後船が保存された現地に連れていかれたのかどうか記憶が定かではなかった。先日夢の島の展示館に行って、木造船の迫力に気圧された衝撃を思うとやはり初めての訪問だったのだろう。

福島原発の惨事以来、事故をめぐる経緯や原発政策をめぐる考察はもちろんのことだが、もっと広く放射能が人間に与えてきた惨禍を見まわしてみたくなった。先日地元の市民グループが企画した映画会に第五福竜丸展示館の学芸員の方が来て、その話を聞いたのが現地へ行って見てみようと思い立ったきっかけだった。

展示館は新木場の駅から歩いて10分くらいのところにある。船を覆うように建てられたドームの内側に当時の様子を伝える資料が並べられていた。それはきっと3・11の前に訪れていたら、核被害に対して鈍磨してしまった感覚にあるいは淡い印象しか印さなかったかもしれない。しかし「フクシマ」を経験し、その現実を現に背負い続ける今、悔恨にも似た痛みを覚える。



・・・放射能の急性障害で亡くなった久保山無線長を含めた第五福竜丸の乗組員たちは僅かな「見舞金」を受けたが、賠償としてそれを受け取ったわけではない。その後乗組員たちは既に半数以上がガンなどの病疾で亡くなっているが、追跡した健康診査を受けたわけでもなく被曝との連関を認められたわけでもない。だだ忘れ去られたのみだ。

被曝したのは第五福竜丸だけではない。太平洋上に散らばって漁をしていた数百の漁船が放射能に汚染された漁獲類を大量に廃棄せざるを得なくなった。それらの人々の健康に影響がなかったのか調査もされなかったし、被害に対する補償ももちろんなされなかった。

ビキニ環礁に住んでいた人々は「実験」のために強制移住をさせられた。理不尽な思惑によって生きる場所を奪われた人々。ここにも放射能のために命と健康を奪われながら、けっして償われない人々がいる。「恩恵」としての医療を受けながら、権利としてのそれは認められない。いまも水爆が炸裂した生まれ故郷に戻ることはできない。それは本当に酷いことではないかと、今さらになって思いが及ぶ・・・

「3月14日」で止まった日めくりのカレンダー
当時のいかつい格好をしたガイガーカウンター
「死の灰」を入れた小瓶の横には、検出された放射性元素の表がある
もはや馴染みになった名前が並ぶ 「ストロンチウム」 「テルル」 「ヨウ素」 「ネプツニウム」

身体の中で血が駆け巡る

ひととおりざっと館内を見回ってから、入口近くにあったボードをまじまじと見つめた。

『沈めてよいか、第五福竜丸』  武藤 宏一

第五福竜丸。

それは私たち日本人にとって忘れることのできない船。
決して忘れてはいけないあかし。
知らない人には、心から告げよう。
忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう。
今から14年前の3月1日。太平洋のビキニ環礁。
そこで何が起きたのかを。

そして沈痛な気持ちで告げよう。
いま、このあかしがどこにあるかを。
東京湾にあるゴミ捨場。人呼んで「夢の島」に、このあかしはある。
それは白一色に塗りつぶされ、船名も変えられ、
廃船としての運命にたえている。
しかも、それは夢の島に隣接した15号埋立地に
やがて沈められようとしている。
だれもがこのあかしを忘れかけている間に。

第五福竜丸。
もう一度、私たちはこの船の名を告げあおう。
そして忘れかけている私たちのあかしを取りもどそう。
原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう。
いま、すぐに私たちは語り合おう。
このあかしを保存する方法について。
平和を願う私たちの心を一つにするきっかけとして。
        (朝日新聞 1968年3月10日 「声」欄より)

これを読んだときもそうだったが、今思い出しても目が熱くなる。
ゴミの山のむこうに打ち捨てられた木造船の写真が、「あかし」を忘れ去ろうとする私を揺さぶる。私と私たちは、忘れるべきでないことを何度も忘れてきた。

平易な直截的なことばだが深く胸を穿つ。無名の詩人の声が、かつてたしかに多くの人々の心を揺るがした。「声」を聴いた者は、他の人間にその「声」を伝える務めがある。

忘れないためには、意志と力が要るのだ。

at 14:46, 主義者Y, 原爆

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comment
あるみさん, 2012/04/12 12:02 AM

第五福竜丸の話は、小学生のころ体育間で人形劇としてみました「白い船」という題だったと思います。
「反核」檄としては、とてもいいものだったと思います…しかし、その当時(といってもずいぶん昔ですが)、反原発・反放射性物質に向かわなかったのが残念です、

主義者Y, 2012/04/13 11:02 PM

ぼんやりとなのですが、新左翼的な世界にいた人々は日本帝国主義の加害者性に重きをおいて(それはよかったとは思うのですが)、かえって原爆など「被害」の面への取り組みが薄くなってしまった傾向がありはしなかったか、などと今に至って考えるところがあります。
「入り口」として通り過ぎ、そのまま解ったつもりになっていたのではないか、という反省です。










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