日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
アルディアティーネの虐殺を描いた作品です。
マルチェロ・マストロヤンニとリチャード・バートンが出演。
イタリア語はわからないけど現地に行ったときに、碑文のなかに「マルツァボット」と「アルディアティーネ」という地名が読み取れました。イタリア人にとっては記憶すべき二つの大きな虐殺事件のうちのひとつだったんですね。
このDVDは前にレンタルで見ていていたのですが、このイタリア旅行の事前調べをしているなかではじめて認識がつながったのでした。あれっ、そういえばこういう事実を描いた映画を見たことあるじゃないか、ということで。ナチ時代の歴史は自分なりに興味関心をもっているつもりなんですが、まだまだ認識の欠落や希薄なところが多いですね。
マルツァボットについては「やがて来たる者へ」という作品が最近公開されています。
こちらの現地はかなり僻地なので今回は行かれませんでしたけれども。
「日本・ソ連・ドイツ 3つの軍服を着ることになった数奇な運命
アジアからノルマンディーまで12000キロを生き抜いた真実の物語」
見に行ったんだけど・・・
戦闘シーンは迫力があり、カメラワークも工夫しているし、小道具類も概ねしっかりしていたとは思うんだけど・・・
いやぁそんな展開はあり得ないよ、という連続でゲンナリしてしまいました。
「真実の物語」と銘打ってはいても、三つの軍服を着た兵士がいて最後にノルマンディーで捕虜になったという「事実」(パンフレットからはその出展が詳しく確認できなかった)をコアにして、ほとんどフルに創りあげたフィクションです。
憲兵隊の祖父が黒い兵科色の襟章をつけていたり、ノモンハンの日本兵の襟章に連帯番号が入っていたり、パラシュート降下した米兵の袖に101空挺師団の徽章が付いていたりとか、やたらにマニアックな小道具には凝っています。ノモンハンではキチンと作られたBT戦車の群れが突進してきます。ノルマンディーの防衛陣地も地形のよく似たロケ地(ラトビアらしい)で、雰囲気もよく出来ています。ドイツ兵たちも、まあ44年くらいだったらこんな格好かなという服装をしています。
そう、文字どおりのカタチの部分ではあんまり文句はつけませんが・・・戦場や収容所での振る舞いや情況の展開で、あまりにもリアルさからかけ離れた「物語」に、ちょっと許容範囲を超えてしまいました。突っ込みどころ満載というか・・・ああ、せっかく多額のカネ(韓国映画史上最高の25億円)をかけて撮ったのだろうにもったいない・・・そんなため息がでてしまいます。
いちいち書いたらキリがないけれど
マラソン選抜の騒動で捕まった朝鮮人たちが裁判の結果、「罰」として皇軍の兵士となる?
朝鮮人ということでやたら殴られるのに、兵営の中で夜な夜なランニング(マラソン選手復帰への体力づくりか?)をしているチャン・ドンゴンは、上官の特別許可をもらっているのか?
退却の責任を問われた前任の指揮官大佐が部隊将兵の前でハラキリをさせられる!解任の沙汰を巻き物で見せ付けたあと、切腹の介錯をするオダギリジョーは拝一刀か?
日の丸の鉢巻をそろって頭に巻き、まるでアレキサンダー大王の軍隊みたいな密集方陣で前進する日本軍部隊
その前進する方向には堤防みたいな土手が左右にまっすぐ広がって、視界の遮られた向こう側からBT戦車の大群が「奇襲」攻撃をかけてくる。んな、マヌケな
オダギリジョーの大佐が下士官なみにやたら兵隊を殴り、戦場で後退する兵を射殺しまくる
逆にソ連の捕虜収容所では大佐という高級将校の待遇を与えられずボロボロの格好
(のちのシベリア抑留ですら将校は階級に応じた扱いをされたというのに)
収容所の所長が捕虜どうしの喧嘩に、ナイフを与えて殺し合いをそそのかす?
凍傷で死んだ仲間の死体焼却を捕虜自身にさせる、まるでナチの絶滅収容所のようなソ連の捕虜収容所
強制労働と飢えのために体力が落ちているだろうに、厳寒の捕虜収容所でもランニングするチャン・ドンゴン。なんという壮絶な根性と、ユルい収容所規則だろうか
ドイツと戦うためにソ連軍の軍服を着ようとしない捕虜たちを即座に射殺しまくる収容所の阿鼻叫喚!
崩れたビルに囲まれた廃墟で対峙するドイツ軍とソ連軍。ビルの屋上からはカギ十字の垂れ幕とロシア語スローガンの垂れ幕が、それぞれ均等の位置に。誰がいつそんなところに垂らした?
モスクワ近くの戦闘のあと、ドイツ側に亡命するために越えていく3000メートルくらいはありそうな山岳地帯はどこだ?
ノルマンディーで続々と船から上陸部隊が上がってきたあとに、空から海岸すれすれに降ってくるパラシュートの兵隊(第101空挺師団のワッペンあり)。本来上陸に先立ってもっと内陸の橋とか確保するだろ。というか海に落ちたらどうする?
うわぁ、だんだん眩暈がしてきた・・・
日本の演劇人口の狭さを反映して観劇するには一般にけっこう高い入場料を払わねばならないのですが、知人が立つ舞台ということで年に1回くらいは、そういう機会をずっと持つことができております。彼には皮肉ではなくて真面目に感謝しております(笑)
一昨日は紀伊国屋ホールに行って、こちらを鑑賞して参りました。
あらすじはリンク先を参照していただくとして
「カミサマ」とは、祈祷を通じて相談者に助言を授ける人のこと。津軽弁で演じる奈良岡朋子の「カミサマ」が、嘘っぽくもあり真実味もあるようなアドバイスを次々に訪れる客に与えていきます。イタコとは違って霊を憑依させるのではなく、「カミサマはこう、おっしゃった・・・」と伝言みたいなカタチで伝えるわけです。しかし場合によっては「ホトケオロシ」といって、死者が直接降りてきて語ることもある・・
先月、恐山を訪れたのは30数年ぶりに行ってみたかったという、ただそれだけの理由でした。多分にマスメディアの影響で、おどろおどろしい霊話のイメージが貼り付いてしまった「名所」です。そういう雰囲気は充分にあります。しかし行ってみて思ったのは、ああここは死者に会いにくる場所なんだな、ということでした。注意してみれば、そういう痕跡はそこかしこに見ることができます。本来そういう場所なのです。
逝ってしまった人の言葉を聴きたい・・・それは誰しもが心の奥深いところに持つ願いなのではないでしょうか。叶わぬことではあっても、諸々の断ち切られた想いを繋げることができるのなら、どうしても求めて願わざるを得ない切なさ悲しさが、人の心に染みるときがあります。
それは生きている人間の葛藤です。その「言葉」が、自分の口から出ようが他人の口から出ようが、大した差異はないのかもしれません。
昔の自分・あなたはどうだったのか、今の自分・あなたはどうなのか、
赦してほしいのか、褒めてもらいたいのか、それとも・・・
言ってほしい、応えてほしい、そういう問いと願いが人と人との内部で乱反射して溢れ出し、言葉となる
舞台のカミサマが死者の語り口になったとき、ポロリと私の頬を伝ったものは、そうした願いと通じたものであったと思います。作劇も演技も見事です。ことに最後のホトケオロシの劇的効果は見事です。
きょうは7ヶ月めの11日
舞台は19日までやっています。
自分の周囲で「人間の条件」を見ている人がなかなかいないので、口頭で感想を顕わにする機会がない。映画作品など他の人はどういう見方をしているのかな、と気になるときにサイト検索をして記事を読むことも多い。「人間の条件」については高く評価する向きが大概だが、まあ中には驚くような敵意に溢れた記事もある。ググればすぐに出てくるのでリンクは貼らないけれど。
反日左翼作家の原作による反日左翼監督の洗脳自虐史観映画だという・・・
日ソ中立条約を破って侵略したことへの批判がないだの、ソ連軍は日本兵を奴隷的な内務班制度から救った解放軍として描かれているだの・・・
こういうヒトには、どんなに完成度の高い芸術作品であったとしても、自分の政治的思想的見解と違背する要素を発見しただけで、一律に受け容れられないのだろう。芸術は政治に奉仕する道具であるという信念で凝り固まっている志操堅固な御仁である。「社会主義リアリズム」を左右反転すればソックリ同じ形になる手合いである。
中立条約を破ったことへの批判がないって・・・唐突なナレーションで時代状況の解説でも入れろと言うのか?いつソ連が攻めてくるかと根こそぎ動員され、過酷な訓練と陣地構築に駆り出される日本兵に「条約を破って攻めてきた卑怯者め!」などと憤慨するセリフを入れろとでも言うのか?バカじゃなかろうかorz。作劇も演出もヘッタクレもない。ただただ自分の主張が作品のなかで表現されていないと、それだけで我慢できない幼児のような反応だ。下痢で疲労困憊になっている日本兵捕虜を無理やり歩かせているソ連軍がなぜ「解放軍」として描かれていることになるのか、わけがわからない。日本人婦女を強姦するソ連兵の現実を見て苦悶する梶と丹下の会話も無きが如くである。それでこの作品がソ連賛美だなどと言うのは、もうメチャクチャとしか言いようがない。黒を黒く描いているのを「白く描いているのはケシカラン」と喚く狂人の態である。
ついでに言えば映画の日本兵たちは、まだシベリアへ行っていない。木材の運搬や鉄道のレールの撤去は中国国内の作業である。なぜレールを剥ぎ取らせているのかというと、「戦利品」としてソ連が持ち去ろうとしているのである。本来中国人に返すべき財産であるところを、ソ連が日本兵捕虜を使役して掠め取っているのである。そういう光景の意味にも全く気がついていないに違いない。シベリア抑留の体験記・研究書の類など真面目に読んだことがないのだろう。
それで公開当時の観客は、反日思想にまんまと洗脳されてしまったのだと看破されてしまう・・・いやもう底の知れない愚鈍さと呆れる他はない。「空前の大ヒット」で映画館に足を運んだ人々(1959年公開)が歴史を知らないが故に、み〜んな騙されたと・・・ああ、眩暈がする。戦争を生き残った人々よりも自分は歴史を知っているんだと誇らしげに宣し給う。80を超えた私の父は軍隊の話をしたがらない。殴られてばかりで本当に嫌な思いをしたようだ。シベリアに行って帰ってこなかった長兄(私の伯父)のこともあり、今でもソ連・ロシアは大嫌い。左翼にかぶれた戦後生まれの息子でさえ、そう思うのは仕方がないよなと頷く。そういう私の父親も歴史を知らずに騙され洗脳された日本人のひとりなのだろうか。身の回りに兵隊へ行った年寄りを見つけて話を聞くぐらいのことはしないのか。人間の肉声よりもマウスをクリックしたほうが、手っ取り早く「真実」に到達できるらしい。
生きた人間と対話をしなければ自分の眼差しや挙動を相手に見られることもない。モニターの文字は自分にとって愉快なモノだけ選べば気苦労することもない。たまに出くわすサヨクな奴には思いっきり侮蔑的な言葉で攻撃すればじつに爽快。実際に顔を合わせたら言えないような汚い言葉も気軽に書ける。本を読まなくたって、学問の蓄積なんかなくたって、便利に「まとめ」てくれるサイトを斜め読みすれば、自分を変えずに世界を変えるのは簡単なことのように思えてくる。
こんな狂気がネット上で次から次へと湧いてきて、さらに勘違いを深めた連中が直接行動に及ぶ。度し難い無知と愚かさに付き合うのは全くやりきれないのだけど、やっぱり黙っていてはいけないのかなあ。
久々に「人間の条件」のラストまで見て、いろんなものが渦巻いている。
何を何からどのように語ったらよいか迷ううちに、いつものように何も書かぬまま時機を逸してしまう愚を避けるため、とにかく書く。
辛くなる映画だった。ソ連軍将校の尋問の前に立たされた梶は、脱出行のなかでのソ連兵、中国人への戦闘・殺傷行為を告白する。証拠も証人もいないのだから否認しておれば追及されることもないはずなのに、あえて正直に告白することで自分を更なる窮地に追い込んでいく。人間としてのあり方に誠実さを貫こうとする梶の生き方は、大日本帝国の軍隊を逃れたあとも、ソビエト社会主義の支配のなかで全く認められることもなく、悲痛な終末に向かっていくことになる。
今でこそスターリン体制の非人間性は枚挙に暇がないほど歴史的事実や体験が伝えられている。30年代のモスクワ裁判に始まり、ラーゲリ国家の暗闇に吸い込まれていく人々の運命を知ってしまった位置からは、梶のような誠実さはあまりに無力であまりに無謀であることが見えてしまう。明瞭に共産主義者であるという自覚を持たずとも、当時の自由主義的な知識人のなかには「社会主義」に対して好意的な期待を寄せる人間も多くいた。梶もそのひとりであったのだろう。ナチスや日本の軍国主義とは違う「人間らしさ」を「労働者の国」に求めても無理はなかったのかもしれない。公正な判断を与えてくれそうだと梶が視線を注ぐ若いロシア人の党員将校は、言語の障壁のために意思を交わすことができない。その梶の視線が移動する先、壁の上面に掲げられたスターリンの肖像があまりに重い。レジームの頂部で希望が潰える終末点のように。
凌辱された日本人の娘がソ連軍のトラックから放り出されるシーンがある。梶がいちばん信頼を寄せ、明確に共産主義を自認する丹下の「過渡期の誤りなんだ。それは訂正されうる過ちなんだ。」という内心の抗弁(この場面で二人とも口を動かしていないので、あるいは梶の内面での想像の対話かもしれない)は、左翼知識人の典型的な合理化であったろう。梶はそれを肯うことはできない。「人間の条件」のありかを示す、それはひとつの分水嶺だと私は思う。ソ連という国が消滅しても、マルクス主義というイデオロギーが未来において体制的な現実態となる可能性が無くなったとしても、この問いが古びてしまうことはない。戦争と軍隊の姿を深奥から炙り出すこの作品の、もうひとつ忘れることを許さない問いである。「大きな物語」のために平然と個人が押し潰されてしまう世界がある限り、いまの私たちに連なる問いである。
梶のような生き方を貫くことは、おそらくできない。それはただ単に、清明なる個人の破滅をもって終わることになりかねない。しかしそれを嘲笑することは、それだけ「人間」から遠ざかることになる。愚かで非現実的な徒労だと笑いのめすことは、それだけ「人間」の尊厳を損なうことになる。希望を失うことを望まないならば、このアポリアから倦まず抜けだそうと努めるのが、私たちに課せられた永遠の作業である。
1940年8月20日
レフ・トロツキーが亡命先のメキシコでスターリンの手先によって襲撃され、致命傷を負う。
翌21日逝去。
1991年8月19日〜22日
モスクワで反改革派のクーデター未遂事件。ゴルバチョフが一時クリミアで軟禁されるが、クーデターは失敗。
のちソ連共産党解体。12月ソ連邦消滅。
あれから20年がたった。
私の個人史に残る痛み。この日だったからこそ書かずにはおられなかった。
あの痛みの感覚を伝えることの困難さを思う。
しまった!一昨日の夜から第1部が始まっていたとは。
今夜9時からです。見られる方はぜひ。
映画が心に刻む力というのは大きなものです。私が「満洲」や軍隊、大陸の戦争について抱くイメージの原像は、この作品から得られたと言っても過言ではありません。
臨時招集令状が届き、厳寒の地に送られた梶は、古参兵の理不尽な仕打ちに耐えながら厳しい訓練を受けていた。妻の美千子は、労働者処刑事件での梶の無実を訴えた手紙を中隊長宛てに送るが、この手紙によって梶は思想犯の兄を持つ新城とともに上から目をつけられてしまう。そんな折、美千子が梶のもとを訪れるが、これが二人一緒に過ごす最後の夜となった。その後、梶に命の危機が・・・。
http://www.nhk.or.jp/yamada100/
66年前の8月の今頃、まだ「満洲」では戦争は終わっていませんでした。
毎年いつもこの時期には、そのことが心に浮かびます。
満洲里 2006年9月
満洲里からハイラルへのバス車中
また行ってみたいものです。
中国の文化大革命の時代、毛沢東は都会の若者を“知識青年”と呼び、農村に“下放”した。膨大な数の知識青年は、毛沢東に忠誠を誓い、彼を太陽のようにあがめ、“毛沢東のヒマワリ”とされた。だが、農作業に明け暮れて満足な教育を受けず、その後の改革開放で競争に敗れ、社会の片隅へと追われる。60歳を越えた知識青年たちが、今、失われた青春を取り戻そうと声を上げ始めた。元知識青年らの全国大会実現までの半年間を追う。
さきほどNHKのBS1で視聴しておりました。
たいへん良いドキュメンタリーだったと思います。ここにも忘却と闘う人々がいる・・・
抑えきれない声が、溢れ出る「知識青年」たちの心の想いが、胸に響きます。
繁栄した上海の街を遊び半分に歩いてきたけれど、あの中国の大地の何処かでこういう人々がひっそりと隠れるように生きている・・・そういう想像力がはたらきませんでした。
心がざわついて、たまりません。
いくら経済が繁栄しても、人間を大切にしない社会では何の意味がありましょう。
過去を忘却させない意志と勇気こそ、ほんとうに豊かな未来を築くことができる。
中国の億万の大衆の中でも、そのために闘う人々にこそ、私はいちばんに手を差し伸べたい。
再放送が18日(金)10時からもあるようです。見られる方はぜひ。
(追記)
ムバラク大統領が辞任を表明したようです。ついにエジプト民衆はやりましたね。
アラブ世界にこの波が広がっていくことを願います。
テレビをあんまり見ない私ですが、連続ものでは「龍馬伝」と「ワンピース」のみ毎回見ています(笑)
幕末もの、けっこう好きでして。
前回は海援隊のいろは丸沈没事件で紀州藩と談判するところが見せ場でした。
わたくし的には、海岸で龍馬がお元に語りかける場面がグッドでしたね。
「おまんが、この日本から逃げ出して異国に行きたいちゅうたときには、ワシはおこがましいかもしれんけど、おまんを助けたいちゃうち、そう思うたがぜよ・・・」
「おまんは、何ちゃあ悪いことはしちょらせん。・・・異国の神さまは決して、おまんを見捨てたりはせんきに」
お元の目から涙が溢れる。福山雅治も蒼井優も、いい演技してます。
長崎・丸山の芸妓「お元」は後藤象二郎の回想のなかにのみ記録されている人のようですが、ドラマでは隠れキリシタンであるという設定になっています。
史実と違う点が多いなど「龍馬伝」はいろいろ批判もされているようですが、なかなか人物造形が魅力的です。過剰に嫉妬深かったり(岩崎弥太郎)、過剰に権柄ずくで嫌な性格に(後藤象二郎)描かれたりしてるとは思うけど(笑)ドラマを盛り上げる意味では楽しめます。
長崎から島原、五島列島などを旅してまわったとき、「隠れキリシタン」関係の場所や遺物を見学していきました。そういう下地でちょっと私は感情移入してしまったのかもしれません。命がけで自らの信仰を守り抜いた(日本の社会風土のなかでは決して多くない)人々でありますし、幕藩体制のもとで最も苦しめられてきたのが、彼ら・彼女らだったからです。民衆革命のパワーも伴走してきた幕末・明治維新で、坂本龍馬はその「希望」が仮託されるヒーローでもあるんですね。
週刊金曜日で龍馬はただの武器商人ではなかったのかと、敢えて挑発的な特集をしていたりしましたが(笑)、船中八策あるいは新政府綱領八策などを見るとやはり只者ではないという気がします。実在の龍馬も興味深いですが、ドラマも巧みに構成されてなかなか熱くさせてくれます。