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評価:
堀切 和雅
新潮社
¥ 1,470
(2010-07)
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この前の週末に、長野の美ヶ原を歩いてきた。
特段の目的というものはなく、標高2000メートルの場所でただ単に暑さを凌ぎたかった。一晩だけ高原の宿に泊まって天然の涼を楽しみ、文庫本の一冊でも読んでこようと思ったのだ。
浴衣を着て部屋の外を歩くような宿は久しぶりだったが、他の宿泊客が夜空を見に出て行くのに吊られて外へ出た。満天の星だ。驚くほどに北斗七星が近くに見える。近くに市街の明かりがなく、ほんとうに360度を見渡せる視界なので星空の観察にはもってこいなのだろう。そういうことは、このとき吊られて外に出てみるまでは全く予期していなかった。
短い間に人工衛星らしき光の軌跡が3回か4回ほど見えた。目の悪い私にも星が天から降ってくるほど煌めいて、壮観な眺めだった。こんな空を見たのは久しぶりだ。20年ほど前にタイの島を旅したとき、浜辺で見た星空は凄かった。それ以来かもしれない。
宿の入口からやや歩き、他の人影が見えないほど離れた暗闇のなかで、独り夜空を見上げていた。星空の美しさは、ただ堪能すればよい。しかしそのとき不意に、昔に見たドラマのセリフが脳裏に甦ってきた。
「降るような星空ってのは、いいもんだったなあ」
このブログのサイドバーにも貼ってある
NHKドラマ「男たちの旅路」でつぶやく鶴田浩二のセリフである。正確に言うと鶴田浩二の演じる吉岡司令補の、特攻時代の仲間が出撃前夜に語った言葉である。
「俺は一晩中、雲よ晴れてくれと空に願った。晴れたら奴を起こして、降るような星空を見せてやりたかった・・・翌朝、曇り空の中を奴は飛んでいった。そして帰ってこなかった」
8月の時期だからなのか、その場面をありありと思い出してしまった。特攻については、いろんな記録・作品を見てきたけれど、これは特に生々しく痛ましく心に刻まれたひとつである。
今より昔のドラマや映画には、こういう戦争を思い出す場面が端々にあったと思う。優れた作品には歴史の記憶を語り継ぐ力もある。そういう作品を紹介したり薦めたりするのも、語り継ぐことの一部になるだろう。
さて冒頭に掲げた書籍と、戦中派「吉岡司令補」のことを結びつけて書きたかったのだけど・・・エネルギーが要るのである。いろんな想いが渦巻いて、とてもしんどい。言いたいことの100分の1も書いていないけど、紹介だけでもしておかねば。
前著「30代が読んだ『わだつみ』」で著者の本をはじめて読んだが、今回も出色の出来である。何度でも繰り返して噛み締めたい。ぜひ一読してほしい。今回の本で知ったことだが、著者は高校生のときに管制塔占拠後の三里塚闘争にも参加したことがあるらしい。まあ、このブログを訪問してくださっている新左翼経験者の皆様にも興味をもたせるということで(笑)
星空のことについてもうひとつ。長ったらしく星空の枕話をしたのは、もうひとつ理由がある。
私は北斗七星とカシオペア座をかろうじて判別できる程度の星座音痴だが、北極星の位置を知る方法はボンヤリと憶えていたのでそれを発見することができた。ああこれが海の上とかだったら、北と南の方位はこれで知ることができるんだな、などとそのときは呑気なことを考えていた。
さてその前後は
半藤一利「ソ連が満州に侵攻した夏」も読んでいたので、どうも想像力が逞しくなっていて、あとからではあるけど美ヶ原で見たあまりにも美しい星空が「満州」と重なってしまったのだ。
満州のあちこちから65年前の夏、開拓団などにいた日本人はこんなふうに夜空を見上げながら逃げてきたんじゃないか。
南をめざして
茫漠たる大地にかかる満天の星。追ってくるソ連軍や中国人の報復を恐れて、幾多の人々が夜を日に継いで逃げていく。ひたすら南へ、日本の方向へ。そして何万という子供や老人、女性が亡くなった。じつは私は沖縄と並んで、旧満州でも非業の死に斃れた人々へのこだわりがある。侵略の加害と被害が折り重なった複雑な構造を、とりあえず置いておいても、である。
五味川純平「人間の条件」で、主人公の梶がやはり同じように満州の荒野の逃避行で、行き倒れて死にゆく少年を前にして号泣する場面も思い出す。ああ・・・あれもこれも・・・
あまりにも美しく大きな星空だったので、どうにもそういうイメージと結びつけて思い出してしまう。8月のこの時期は想像力が肥大して、いろいろな風景を媒介にしてツラい深みに嵌まるのである。程程にセーブしないと、しんどいのである。満州里、ハイラル、ハルビン、長春(新京)、瀋陽(奉天)、撫順、大連など、旧満州各地の現場を歩いてきたこともあるから、尚更思い入れを持ちやすいのかもしれない。私の父方の伯父もシベリア抑留から帰らなかったと聞いている。
まあ星空を眺めてこんなことを想像する奴は、あんまり居ないだろうけど(苦笑)
とりとめもなく書いてしまった。
しかし、自分が経験していない歴史の記憶を伝える作業を、微力でもしなければいかんと思う。