もはや黙っていることは耐え難くなってきました。
本来はイラク戦争のときに決壊していたはずの「思い」ですが、こんにちの「共謀罪」新設を進めんとしている我が公明党に対して。
私は創価学会員です。いくつかの訪問させていただいたブログのコメント欄で自分の立場を宣明したこともありましたが、ここで公にするのは初めてです。これまでのエントリーで、かつての左翼的な個人史はある程度書いてきました。しかし自らの宗教的信条については完全に沈黙を保ってきました。
最近でこそ少なくなってきたものの、左派的な意見に対する嫌がらせコメントを相手にするのもウンザリしていたし、そのうえに学会という立場を攻撃してくる来訪者がいたら堪らないと考えていたのです。
要するに勇気がなかったのですね。
そしてまた、ネット上であれ他のメディア上であれ、文字面の言葉で宗教上の論戦をしても空しいものだという懸念がありました。創価学会が今日、庶民に根ざした一大組織に発展したのは宣伝媒体を利用したプロパガンダのせいではありません。一対一の地道な対話、ひとりひとりの地を這うような、己の人間革命を賭けた必死の格闘によって到達したその結果なのです。それは私自身が入会して、様々な人に出会い、活動していくなかでようやくわかったことです。「知識人」が高みに立って、創価学会拡大の社会的要因などを分析してみせますが、あまりに表層的な、「人間」を知らない民衆蔑視の浅見と言わざるを得ません。ある人間がある宗教に帰依することがどんなに重い決断なのか。顔や声や息づかいの見えない印字されたコトバだけで人の心が動かせると考える「知識人」は、真の信仰というものが人間存在の深奥からいかに規定するものなのかを知りません。
私は書物よりも多くのことを、知識も教養もないと軽んじられる「普通の」壮年・婦人の人々から学んできました。見かけ上の高邁・難渋なコトバを撒き散らして「変化」を「期待」するような知識人の怠惰と安直さからではなく、素朴で平明な、行動のなかから発せられる言葉の力・信仰の力を学びました。
私が私自身の危機をのり越えて今日まで生きてこられたのは、そのためです。日蓮仏法を淵源とする智慧の発露と蘇生のドラマ、歴代会長の壮絶な苦闘と無名の民衆の不屈のたたかいは、たえず今日の自分を明日の自分へ運んでいく実践の道標です。創価学会がなければ、私は私を殺していたでしょう。
だから私は生涯、学会を離れません。
そのことを確認・宣言したうえで。
学生時代に入信した当初から、公明党への距離は私の悩む問題でした。
「信心することと政党支持は別」という先輩、婦人・壮年部の人々の言葉にしたがって、私はしばらくの間ずっと各種選挙に際しては革新政党への投票を続けてきました。そもそもが自分の政治的立脚点の多くを新左翼の理論から構築してきたのだから当然と言えば当然です。左側からの日本共産党への激しい反発を蔵しながらも、広い見地での日本の左派勢力の伸張を目指して「選挙」という場面では共産党を含む政党の選択をしてきました。
ただ、国政ではなく自治体レベルでは次第に公明党を応援することも多くなっていきました。ヨリ庶民の生活に密着した市町村・都道府県での代表者は、まさに庶民の海のなかから生まれ出た議員に託してもいいんじゃないか、と考えるようになったのです。それは「科学的社会主義」の硬直した機関決定に縛られる共産党や、弛緩した組合民主主義の代表にすぎない社会党議員に対する幻滅と表裏でした。
また、ソ連体制の瓦解をきっかけとする私自身のマルクス主義からの離脱もあります。以前のエントリーにも少し書きましたが、トロツキズムという本来は「スターリン主義」体制の超克を追求する立場にいながら、ロシア革命以来の非資本主義的未来(すみません、ソ連社会を『社会主義』とは見なしていなかったのでこういう書き方になります)への道程が消失してしまったことへの、言いようのないショックがありました。史的唯物論を根底とする「歴史の発展法則」から世界の有り様を見渡すのはいったんやめてみよう、と思ったのです。また何より、スターリン主義に限らずそののりこえを目指してきたはずの新左翼運動の歴史にも発生する、左翼運動内での否定的な事象を「理論」面の拡充・展開で解決していけると考えるのは、「知識人」の傲慢ではないかと思うようになりました。
選挙は、民衆が政治に参加するための唯一の活動形態ではありません。しかし、制度上の権力機構に直結する有意なチャンスです。その政党支援の活動に、公明党を応援する学会員ほど真剣に取り組んでいる人間集団はありません。そのことを揶揄したり軽侮したりする人は、「本気」で政治を変えようと闘ったことがない人だ、と断じます。共産党の党員諸君の闘いを軽んじるわけではないけれど、因習深い保守の地盤に、岩盤に爪を立てるように穴を穿ち、民衆自身を政党選択の主体に変革し続けてきたのは他ならぬ学会員です。幹部の号令に盲目的に従う無知蒙昧な運動員では、外部の支持を獲得できません。各人が各様に、語れる力の限り政策を理解し訴えを広げているのです。文字通り「ひとりひとり」の闘いになっているのが、他の政党とは決定的に違います。
私はそれを目の当たりにしてきたし、またその渦中にともに在りました。政治的異論を抱えつつも、同志のたたかいを尊いものと思いました。
自分の投票行動だけでなく、はじめて他人に公明党への支持を求めたのは、宗門と決別したあとの参議院選です。戦前の権力弾圧に屈した過去を糊塗し、権威主義に腐れきって学会を破門した宗門が、かえって私をはじめての公明党支援に踏み切らせたのです。その意味では支援への転換は、決して政治の論理の内側ではなかったけれど、これを機縁に公明党の政策・理念を積極的に受け止める努力をするようになりました。私にとって自衛隊の非武装PKO派遣は、この時点で許容できるぎりぎりの選択だったのです。いったん定型的な左派思考の枠組みを外そうとしたことは、今でも自分にとっては有益だったと思っています。支配階級〜被支配階級の二項対立から抜けて「陣営」の彼我によることなく、自由に政策の評価をしてみようとする姿勢も身につけられたのかなと。
しかし、思えば公明党支援のための私自身のたたかいの頂点は、細川政権の成立あたりまでだったかもしれません。
自さ社政権を経て、自自公、自公保と、政権与党に組するようになって、私の内部でなんとか政治の論理で自立した公明党支持を構築していくパトスは失速していきました。政権交代をめざす野党の立場でなく、長らく対抗してきた保守勢力との連立はどうしても野合としてしか捉えられません。いや、連立一般を否定するものではありませんが、連立維持のために従前の平和主義その他の公明党の屹立した主張を言わなくなってしまった、と。いったいなぜ?
そして1999年。周辺事態法、盗聴法などもありましたが、私にとっては「国旗・国歌法」が深く刻印されています。
そのころ職場の仕事が気が狂うほど忙しく、テレビのニュースも新聞の記事もほとんど見る余裕もありませんでした。学会の会合にも出れませんから、組織のなかで個人としての意見を伝えることもできませんでした。イラク開戦のときほど悔しい思いをしたことはありませんが、あの時は自分が何も行動できないままに、あっという間に決められてしまったことが非常に辛い悔しさでした。
そう、辛かった。辛かったし、あの法律は今でも辛い思いを私に突きつけています。イラク開戦を容認した公明党の態度とともに。
いかに「善意」であろうとも、今もじっさいに人の心を踏みにじりつつあり、またイラクの地においては戦火で人の命を奪った結果責任を、公明党を支援した私たちは負っています。
愚直なたたかいを日々たたかう同志の足を引っ張ることはしたくない。自分の言葉が同志のたたかいの勢いを削ぐことになってはならない。学会を悪意をもって攻撃しようとする勢力を利するような軽率な論は慎まなければならない。
そういう思いが、公然たる公明党批判を今日まで私に抑えさせてきたのでした。
でも、もう我慢できません。「共謀罪」をめぐる公明党の言説は、全く私を納得させてくれません。
ひょっとしたら私は間違っているのかもしれません。でも、そうだとしても自分の思いを誤魔化さず隠さず、明らかな言葉にすることによってしか、私は自分の誤りを正すことができないでしょう。もう、個人的に幹部をつかまえて疑問を述べるだけではすまないのです。よし私の言葉の刃がめぐり巡って、公明党支援をする同志に突き刺さろうと、政治の批判には政治の言葉で応えねばなりません。
「共謀罪」をめぐる公明党の姿勢について、かなり辛辣な批判を述べます。
いくつも溜めてきた批判を述べさせてもらいます。
真の庶民の味方に、公明党こそがなってほしいから。