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アウシュヴィッツの日本人ガイド 中谷剛さん

 いろいろな場所へ行って見て、書かねばいけない数多のこともあるのに、天性の不精癖からほったらかしにしています。

先の15日には国立市へ、アウシュヴィッツ現地で唯一の日本人ガイドとして活躍されている中谷剛さんの講演会に行ってきました。私は今からちょうど10年前、2000年の夏に現地を訪れ、中谷さんにガイドをしていただきました。そのときのガイドぶりが素晴らしく、その後も歴史を語るさいの「お手本」としても心に刻み、私が尊敬している方です。

2000年に訪れたとき、中谷さんのガイドのことはあらかじめ知っていたので日本出発前に予約を入れて現地に向かいました。私のほかに大学院生の男の子が予約していたようで、この二人でガイドをしてもらうのかなと思っていたら、そのとき傍に日本人の見学者も何人かいて、結局7〜8人くらいのグループでガイドしてもらうことになりました。

さて、受付窓口から収容所の内部へ向かってゾロゾロと歩き出します。
先頭を行く中谷さんは無言のまま。えっ、ガイドなのに何故なにも言わずに歩いていくのだろう・・・?おそらく不審に感じながらもみんな仕方なく、中谷さんの後ろをついていきます。私はアウシュヴィッツは初めてではないので、歩いていく方向がわかりましたが黙っていました。やがて半地下式の建物のドアをくぐって中に入りました。皆が入り終わったところで、おもむろに中谷さんは口を開きました。

「みなさん。ここがガス室の中です。ここに来た人々は、皆さんと同じようにほとんど何の説明もなく、この場所に連れてこられ、ここで一生を終えました。」

これがこのときの中谷さんのガイドの第一声です。



当日のお話も胸に染みる良い内容でした。話を聞く前はホロコーストに関する一般的で啓蒙的な講演なのかなと思ったのですが、そうではなくて国立音楽大学付属高校の女子生徒さんたちの2度のアウシュヴィッツ訪問に応えて、その際の様子などを映像を交えて話していただきました。
彼女たちは合唱部のメンバーで、彼の地で亡くなった人々に追悼の歌を歌い捧げたのです。アウシュヴィッツは「ミュージアム」でもありますが、まずもっては非業の死を強いられ亡くなった無数の人々を悼み想う場所です。彼女たちはホロコーストについての事前学習はもちろんのこととして、その追悼の場所で振舞うべき彼女たち自身の行為を標したのでした。
たまたまその近くの場に行き合わせたポーランドの(他の外国人もいたかもしれません)人々も、じっと立ち止まりその歌声に聞き入っていたそうです。日本語の歌詞(谷川俊太郎の『生きる』)がわからなくても、その心が通じたのでしょう。中谷さんにとってもそれは、かつて生と死の隣り合ったこの場所でガイドをする自分を励ます歌声として、深く感銘を受けられたそうです。その2度にわたる訪問が今回の国立市における講演会に結実したのでした。

講演の詳細を報告する力量は私にはありませんが、「現場」に立つときの想像力というのでしょうか、中谷さんからはその大切さを多々教えられた気がします。何十年も前のこと、自分が生まれる前のことですらもある「歴史」をいかに伝えるか。いや、「伝える」とは単なる伝達ではなくて、自分と相手の生命を開拓し交錯させる行いなのでしょう。なんとしてでも「伝えたい」という思いの深さは、自分の変革を伴い、伝える相手の存在を揺るがす力となるはずです。ただの事実の記述でも、論理の表現でもありません。もっと奥深いなにものか。それをこそ掴み取る力を、手渡す力を身につけられたら・・・

中谷さん、素晴らしい話をありがとうございました。






 

at 21:42, 主義者Y, ホロコースト

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「愛を読むひと」メモ

 強制収容所の看守たちを裁く法廷。傍聴したゼミの同級生が弾劾する。
ユダヤ人の生存者が著した本がたまたま出版され、それによって告発された被告たちがいる。しかし、あの法廷に居並んだ多くの人々のなかにもナチの犯罪に手を染めた者はいなかったのか。青年らしい正義感に溢れた憤りは、また私自身のものでもあった。

ただ看守たち、とりわけ「責任者」と目されたハンナに対しては「もし許されるのあれば射殺してやりたい」とまで激しい言葉が吐き出される。それを黙って聞くしかないマイケル。主人公たちに伴走してきた我々観客にもまた、その正義の弾劾の矢は向かってくる。生半な反論など許さない怒りの刃を、ただ沈黙して受け容れざるをえない。

法廷で明らかになった事実によって、かつて教会の中で流したハンナの涙の意味をマイケルは悟っただろう。小説の活字とは違って、ケイト・ウィンスレットの演技はじつに深々とその表情を印象に刻む。許されない罪ではあるけれど、そのとき私は無名の加害者の側に惹きつけられているのである。もちろん正真正銘のサディスト・人格欠損者が、あるいはむしろそうした者たちこそが多く関わったホロコーストの加害者ではあるけれど、彼女の表情のなかに時代の人間を生々しく感じ取ってしまう。

at 12:08, 主義者Y, ホロコースト

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残虐行為に失神する親衛隊長官

ナチスによる「下等人間」の虐殺は収容所だけで行われたのではない。
戦争の勃発がやはり大量虐殺開始の引き金を引いた。ポーランド侵攻の当初から親衛隊(SS)、保安警察員で編成された特別行動部隊が前進する戦闘部隊のあとをついていき、ユダヤ人をはじめとしてナチスの敵、占領支配に邪魔だとみなす人々(知識階層、軍人など)を殺してまわった。
その規模を激しく拡大して行われたのが独ソ戦である。戦線の北から南にかけて「A」から「D」まで4つの特別行動部隊(アインザッツグルッペン 総勢約3000人)が編成され、ソ連への侵攻にしたがって占領地域のユダヤ人を射殺していった。1941年6月22日(今日だ!)の侵攻開始からその年末に至るまでの間に、50万〜80万人のユダヤ人が殺害された。一日平均2500〜4000人ほどの計算である。(芝健介『ホロコースト』中公新書 による)

私の旅したリトアニアおよびバルト諸国は、特別行動部隊「A」の行動範囲にある。カウナスでの虐殺も、これら全体の殲滅作戦の一部にすぎなかったのだ。ウクライナのキエフ近郊「バービー・ヤール」の谷では二日間で3万人を射殺している。(バービー・ヤールの事件は1978年放映された長編テレビドラマ『ホロコースト』でも描かれている。記憶されている方はいるだろうか。)

虐殺する側に問題となってきたのは、銃殺を執行する兵の心理的負担の増大だった。
飲酒にたよって感覚を麻痺させたり、精神の均衡を失う者、自殺する隊員もいた。親衛隊の長官ハインリヒ・ヒムラーがミンスクにある収容所を視察したのは1941年9月。銃殺された人間の脳漿が自分のコートに飛び散ったヒムラーは気分が悪くなったという。兵の負担を軽減するため、殺害方法の変更を現地部隊も求めていた。より「人道的な」方法を。

方法は準備されていた。「T4作戦」と通称される精神障害者の「安楽死」計画である。すでに一酸化炭素ガスによる殺人の実績と技術を蓄積していたスタッフが、ユダヤ人問題の「最終解決」のために動員されてきた。ヘウムノのガス・トラックによる殺戮がはじまり、ラインハルト作戦の絶滅収容所群が回転しはじめるのは、これ以降のことである。密閉された空間で作業が完了することで、殺人者は犠牲者の苦悶を目の当たりにしないで済むようになった。チクロンBという、もっと効率的な殺人が行える青酸ガスを採用したアウシュヴィッツが本格的に稼動するのは、更にこの後のことだ。


ハダマーにある精神病院の地下。当時のガス室が保存展示してある。

想像もつかないことだが、人間が人間を殺すということは直接に手を下す者にとっては相当に負荷を抱えることなのだろう。相手への憎しみによってではなく、「任務」「仕事」としてやらざるを得ない場合はなおさらそうなのではあるまいか。それでも「命令」を執行しなければならない者は、その負荷に耐えていかねばならない。たとえ彼に命令をくだすその命令権者が、人を殺すことの負荷に無理解であったり、人間の命の重さに思いを致すことのない軽薄な人間であったりしてもだ。

アルカイダの友達の友達であることを得意げに語る某大臣には、「死に神」という形容よりも「親衛隊全国指導者」のほうがふさわしい気もする。署名するだけだから、もっと気が楽か。


普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊
普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊
クリストファー・R. ブラウニング
殺戮をした側の「普通の人びと」について、克明にその像を追っています。
手に入れられれば、これはぜひ読んでほしい!

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書 (1943))
ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書 (1943))
芝 健介
これは今日、一気に読んでしまいました。最新の研究動向もふまえてコンパクトかつ充実した内容です。こちらなら、どこでも手に入るでしょう。お勧め。



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at 12:58, 主義者Y, ホロコースト

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ラウル・ヒルバーグ氏死去

R・ヒルバーグ氏死去 米歴史学者

ショアーに深い関心のある人以外には馴染みのない学者だろうけど、この人の「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」は、このテーマの研究では最高峰なのだ。
ヒルバーグ氏の存在を知ったのは映画「ショアー」(C.ランズマン監督)でだった。氏のおかげで(加害者でもない被害者でもない)「傍観者」への視角が、強く私の内面に刻まれたと思う。

ユダヤ人たちを絶滅収容所へ移送した列車は誰が運行したのか?
それは親衛隊ではない。ドイツ国鉄はユダヤ人一人当たり○○マルクという運賃を親衛隊から払いうけてダイヤを組み、列車を走らせたのだ。大量の人数を運び込んだ絶滅収容所からの帰りの便はいつも空車であったことも、鉄道関係者は知っていた。複数の国境を越えて走る列車にはそれぞれの当該国通貨での支払いが求められ、親衛隊はその調達にも頭を悩ませたという。
未曾有の民族絶滅計画を可能にしたのは、手を血で濡らした殺人者だけではない。日々の職務として黙々とそのプロセスを支えた膨大な群衆がいる。優れた歴史学者はそうしたディテールに広範な資料から光をあて、私たちに新たな気づきを与えてくれる。


ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 (上巻)
ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 (上巻)
ラウル・ヒルバーグ, 望田 幸男

入院したときに読破しましたが、かなりのボリュームです。上下巻あわせて14000円(笑)
本がキビしかったらサイドバーにも掲げてあるDVD「ショア」もよろしく。こちらは全編とおしで9時間(爆)
思えばこの映画「ショア」は、小田実が書いた新聞の紹介記事を読んで見に行ったのでした。
もう13年も前、アテネ・フランセで2日間の上映でした。人があふれて最前列の床に座って見ていたのだけど、見上げたまんまの首が痛くなってもスクリーンに釘付けになっていましたっけ・・・

ショア
ショア

そういえば高橋哲哉氏をはじめて知ったのも、「ショア」の解説者としてでしたなあ。


at 19:34, 主義者Y, ホロコースト

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ウィーゼンタール氏死去

「ナチスの戦争犯罪人らを追及し続けたサイモン・ウィーゼンタール氏が20日、ウィーンの自宅アパートで死亡した。96歳だった。」(9月21日:ロイター



ウィーゼンタールは、マウトハウゼン収容所(オーストリア北部)でアメリカ軍によって解放された。そこでは1万人の死体が放置されており、11万人の生き残り囚人のうち何千人もがアメリカ兵の目の前で死んでいった。
ウィーゼンタールは解放の数日後、収容所の司令室のあった部屋へ、這うようにして行った。彼はもはや歩く体力もなく、這ってゆくしかなかった。そこまでしてアメリカ軍将校に訴えたかったことは何だったのか。



「”彼はもう助かりませんよ”。
そういっている通訳の声がかすかに聞こえた。しかし、私は何としても生きるつもりだった。何としてもいいたいことがあった。そうでなければ、なぜ、かいこベッドから抜け出し、消耗しきった身体を引きずりながら、アメリカ人将校のいるこの部屋まで這い続けてきたのか。荒い息を整えた後、私はいった。
”自分は殴られました”
”誰にだね?”
”班長です”
”SS隊員かね?”
”違います。囚人です”。
アメリカ人将校は、理解しがたい様子で私を見つめた。
”この男は地獄を通り抜けてきたはずなのに・・・。弱りきって立ち上がることさえできないのに、数発殴られたことを報告するために、わざわざこの部屋まで這ってきたというのだろうか・・・。殴ったのはSS隊員でさえないのに”。



彼は全然わかっていなかったのだ。ナチス帝国がもう三日前に崩壊していたからこそ、私は殴られたことがたまらなかったのだ。私は、どんなことがあっても二度と、二度と誰にも自分を殴らせないと、決心していたのだから。サイベル大佐は、私を殴ったポーランド人班長を呼んでくるよう、部下に命じた。このことがどれほど私を安心させたことか・・・。ああ、この世に再び正義が戻ってきたのだ。彼は、本人も意識しないうちに、私に生きる意味を見つけてくれたのだった。私がこれから生きていく意味−−−私のゲットーでの友人たち、そして収容所での囚人仲間を辱め、拷問し、殺した人間たちを法のもとに裁き、正義を取り戻すことを」
(徳留絹枝著 『忘れない勇気』 潮出版社:77・78ページより。太字は引用者)


(写真はすべて管理人が現地で撮ってきたものです)

忘れない勇気
忘れない勇気
徳留 絹枝

ナチ犯罪人を追う―S・ヴィーゼンタール回顧録
ナチ犯罪人を追う―S・ヴィーゼンタール回顧録
ジーモン ヴィーゼンタール, Simon Wiesenthal, 下村 由一, 山本 達夫




at 13:03, 主義者Y, ホロコースト

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NHK今夜11時「アウシュヴィッツ」

昨晩から5回シリーズでやっています。今夜は2回目です。
BBCの制作ですが、現存しない建物をCGで再現するなど丹念によく作り込んでいます。
とおりいっぺんの紹介ものではないので、ぜひご覧ください。



at 18:57, 主義者Y, ホロコースト

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デンマークの謝罪

デンマークのラスムセン首相は4日、同国がナチス・ドイツ占領下にあった1940年代初め、ドイツから逃れて来たユダヤ人を追い返し、強制収容所での死を招いたことを「歴史的過ち」として謝罪した。(5月5日:共同通信

「大戦中のユダヤ人追放謝罪 『過ち』とデンマーク首相」というこの記事の表題を見て意外に思った。
日本ではよく知られていないが、デンマークはナチスドイツの侵略を受けながら政府はそのまま存続し、デンマーク軍も武装解除されなかった。
デンマーク政府は再三にわたるナチスからのユダヤ人引渡し要求を拒否し、行政と市民の連携プレーによって密かに7000人以上のユダヤ人を中立国スウェーデンに逃した。
ユダヤ人を守ることにかけては非の打ち所がなかった国。そういうイメージがあったからだ。
それで記事を見てみると
しかし最近、40年から42年にかけて、ドイツ出身のユダヤ人少なくとも19人を追放していたことが発覚していた。
人数が少なければ悲劇性が薄れるわけではないが、「19人」に救いの手を差し伸べなかったことを60年後に謝罪する・・・
どこかの国の誠実さと比べると眩暈がしそうだ。


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at 00:01, 主義者Y, ホロコースト

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ホロコースト関連のメモ

「エルサレムのホロコースト記念館に新館完成」(読売新聞3月16日

シャロン首相のスピーチ、「イスラエルの国家こそ、二度とホロコーストが起きないことを保証してくれる場所だ」
・・・もしもユダヤ人の主権国家が当時存在していたら、ホロコーストの諸相は違っていたとは思う。しかし、パレスチナ・アラブ人の犠牲のうえに成り立つ「安全」は間違っている。「ヤドヴァシェム」(ホロコースト記念館)自体、誰の村をつぶして建設された場所なのか。

↓今現在読んでいる本
ワルシャワ通信―日本人学校教師のポーランド体験
ワルシャワ通信―日本人学校教師のポーランド体験
梶原 衛, 渡辺 克義

こちらには各地の強制収容所への訪問記がのっている。
アウシュヴィッツやマイダネクなど、当時の施設が残っていたり博物館として整備されているところは「地球の歩き方」などのガイドブックにも掲載されていて、アクセスしやすく多くの人が訪れている。他にもいくつか、何十万もの人々が殺されている絶滅収容所もあるのだが、こちらは交通の便の悪い場所が多く、わずかの人しか訪れていない。
この本の著者は、そうした場所にも丹念に足を運んでいる。
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at 11:00, 主義者Y, ホロコースト

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アウシュヴィッツ解放60周年

1945年1月27日、アウシュヴィッツ収容所はソ連軍によって解放されました。

現在、ヒルバーグの「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」に挑戦しております。
「予備的考察」「前史」「絶滅の構造」「ユダヤ人の定義」「収用」「強制収容」と読み進んできておりますが、ボリュームたっぷりで果たして読了はいつになるのやら・・・収容所どころかゲットー設置の話もまだ出てきません。
頭の中が膨大な情報量で埋め尽くされておりまして、うまく整理がつきません。ただヒルバーグが、ナチ当局の夥しい行政文書等を活用して、絶滅機構が整備・推進されていく様を精緻に追っていくのに圧倒されます。
いわゆる歴史修正主義なるものはこの分野にもあるわけですが、地味な歴史研究者の作業を無視して蒙昧な説を流布しているわけです。・・・ふう

というわけで(どういうわけで?)今日はまとまった論考を書く気力がありません。
とりあえず、ネットで気になった記事などご紹介・・・この中の歴史家バゼッティのインタビューなどは注目かと
「ランプ」の復元が先月からはじまってるなんて知らなかった・・というか、今までほったらかしにされてたんかい!(↓写真)

(石の置かれてある場所で、到着したばかりのユダヤ人は強制労働につかせられる者とガス室行きの者とに分けられた。)


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at 21:29, 主義者Y, ホロコースト

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トレブリンカへの乗車場

先ほど「戦場のピアニスト」をTVで見終わった。
ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちは、この Umschlagplatz(鉄道乗車場)からトレブリンカ絶滅収容所へと移送された。

現在は壁に囲まれたモニュメントのみが残る。当時の面影はまったくない。


ゲットー蜂起(1943年4月)の司令部跡。この最後の抵抗のあと、40万人いたワルシャワ・ゲットーは消滅した。

at 00:10, 主義者Y, ホロコースト

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