ナチスによる「下等人間」の虐殺は収容所だけで行われたのではない。
戦争の勃発がやはり大量虐殺開始の引き金を引いた。ポーランド侵攻の当初から親衛隊(SS)、保安警察員で編成された特別行動部隊が前進する戦闘部隊のあとをついていき、ユダヤ人をはじめとしてナチスの敵、占領支配に邪魔だとみなす人々(知識階層、軍人など)を殺してまわった。
その規模を激しく拡大して行われたのが独ソ戦である。戦線の北から南にかけて「A」から「D」まで4つの特別行動部隊(アインザッツグルッペン 総勢約3000人)が編成され、ソ連への侵攻にしたがって占領地域のユダヤ人を射殺していった。1941年6月22日(今日だ!)の侵攻開始からその年末に至るまでの間に、50万〜80万人のユダヤ人が殺害された。一日平均2500〜4000人ほどの計算である。(芝健介『ホロコースト』中公新書 による)
私の旅したリトアニアおよびバルト諸国は、特別行動部隊「A」の行動範囲にある。カウナスでの虐殺も、これら全体の殲滅作戦の一部にすぎなかったのだ。ウクライナのキエフ近郊「バービー・ヤール」の谷では二日間で3万人を射殺している。(バービー・ヤールの事件は1978年放映された長編テレビドラマ『ホロコースト』でも描かれている。記憶されている方はいるだろうか。)
虐殺する側に問題となってきたのは、銃殺を執行する兵の心理的負担の増大だった。
飲酒にたよって感覚を麻痺させたり、精神の均衡を失う者、自殺する隊員もいた。親衛隊の長官ハインリヒ・ヒムラーがミンスクにある収容所を視察したのは1941年9月。銃殺された人間の脳漿が自分のコートに飛び散ったヒムラーは気分が悪くなったという。兵の負担を軽減するため、殺害方法の変更を現地部隊も求めていた。より「人道的な」方法を。
方法は準備されていた。「T4作戦」と通称される精神障害者の「安楽死」計画である。すでに一酸化炭素ガスによる殺人の実績と技術を蓄積していたスタッフが、ユダヤ人問題の「最終解決」のために動員されてきた。ヘウムノのガス・トラックによる殺戮がはじまり、ラインハルト作戦の絶滅収容所群が回転しはじめるのは、これ以降のことである。密閉された空間で作業が完了することで、殺人者は犠牲者の苦悶を目の当たりにしないで済むようになった。チクロンBという、もっと効率的な殺人が行える青酸ガスを採用したアウシュヴィッツが本格的に稼動するのは、更にこの後のことだ。
ハダマーにある精神病院の地下。当時のガス室が保存展示してある。
想像もつかないことだが、人間が人間を殺すということは直接に手を下す者にとっては相当に負荷を抱えることなのだろう。相手への憎しみによってではなく、「任務」「仕事」としてやらざるを得ない場合はなおさらそうなのではあるまいか。それでも「命令」を執行しなければならない者は、その負荷に耐えていかねばならない。たとえ彼に命令をくだすその命令権者が、人を殺すことの負荷に無理解であったり、人間の命の重さに思いを致すことのない軽薄な人間であったりしてもだ。
アルカイダの友達の友達であることを得意げに語る某大臣には、「死に神」という形容よりも「親衛隊全国指導者」のほうがふさわしい気もする。署名するだけだから、もっと気が楽か。
普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊
クリストファー・R. ブラウニング
殺戮をした側の「普通の人びと」について、克明にその像を追っています。
手に入れられれば、これはぜひ読んでほしい!
ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書 (1943))
芝 健介
これは今日、一気に読んでしまいました。最新の研究動向もふまえてコンパクトかつ充実した内容です。こちらなら、どこでも手に入るでしょう。お勧め。
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