ベルリンのプレッツェンゼー処刑場

小田実は、心が弱くなったとき、ここを訪れ、勇気をもらったという。
ナチス独裁に抗して闘った、無名の市民たちが処刑された場所。
小田は、こんな独裁の世の中でも、自由と解放のために闘った人がいた。ここは世界でいちばん美しい場所ではないか、と語った。
声を詰まらせ、今にも泣き出しそうな口を震わせて語る小田の表情が忘れられない。

同じ場所に立って、僕はどんな覚悟をしたのだろう。
彼ら、彼女らに対して、自分は恥ずべき人間になっていないか。
何のために自分は生まれてきたのか。その問いを突き詰めようとしてきたか。
キロチンが首を落とす瞬間まで、闘う意思を失わなかった人たちに、僕は連なることができるだろうか。





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ヴァンゼー会議



ベルリン西南の郊外。ポツダムの手前あたりにヴァンゼーという湖がある。この湖畔の邸宅で1942年1月20日、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの主催で「ユダヤ人の最終的解決」のための会議が開かれた。ナチ国家の関係官庁の上層指導者が集められ、ここでヨーロッパ・ユダヤ人の国家的規模による計画的殺害が優先事項として確認され、各機関の権限や役割が調整された。絶滅過程が大規模に進行をはじめたのは、この会議以降である。
会議を実務的に仕切ったのが、あのアドルフ・アイヒマンだ。

写真でレクチャーを受けているのはドイツ連邦海軍の高級将校たち。この部屋で当時の会議が行われた。日本の自衛隊では戦跡めぐりはしても、こういう人権にかかわる場所は見学しないだろうね。




正面玄関から建物内部に入ったところ。




会議場の前はすぐ湖。ヴァンゼーはベルリン市民の憩いの場所だ。ずっとのんびりしていたい、と思った。




独ソ戦の開始とともに、戦闘部隊のあとからA〜Dの4個部隊編成の特別機動殺戮部隊(アインザッツグルッペン Einsatzgruppen)が続いた。彼らは占領地域でユダヤ人を狩りだし、大量殺人を重ねていった。写真はアインザッツグルッペンA部隊の指揮官ヴァルター・シュターレッカーによる報告地図。棺桶の横の数字が殺害した人数になる。エストニアには「JUDENFREI」と書いてある。ユダヤ人から自由になった、すなわち絶滅完了という意味。

これらはアウシュヴィッツが建設・稼働される以前の段階である。殺戮部隊は銃殺によって任務を進めてきたが、人間を殺し続けるという負荷に隊員が耐えられなくなってきたため、絶滅収容所による殺人工場的な手法が導入されたのだ。




上の写真はネットで拾ってきたもの。ショアーに関心がある人には見慣れた写真だが、1942年ウクライナのアインザッツグルッペンによる殺戮。子どもを守ろうとする母親を撃ち殺す隊員。

at 22:10, 主義者Y, 旅の写真

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ビルケナウ収容所

先月のポーランド、ドイツの旅で撮ってきた写真・動画をPCに落とした。

写真の枚数でいうと約2100枚。
サイテーの気分で旅をしてきたわりには、それなりに撮っている。
どんな状態になろうとも、自分は自動撮影機械になるようだ。

ところが今まで他人に旅の報告らしき話をしたのは、全員あわせて延べ5分といったところか。
つまり全く話をしていない。

意味がないのである。時間と費用をかけて行ってきた意味がないのである。
自分の内側には印象や経験はどんどん溜まっていくが、写真としても言葉としても他人にはいっさい伝えていない。
こんなことも珍しくなくなってしまった。
世界に関心があるようなフリをして、実のところは、私は自分のまわりの人間世界には全く無関心という
ことだったのだろう。

まあ、ヨーロッパを旅してきたと言うと、たいがいは「どこが綺麗だった?」「美味しいものは何を食べた?」って
訊かれるのが定番だから。
アウシュヴィッツ、なんていうと沈黙しちゃうもんね。

親にも黙って出かけたしなあ。これからも隠しておくけど。
バレたら「無駄遣いすんな!」と文句言われるだけだし。

何のために行ってきたのかなあ。

ああ、こんなことを書くと疲れる。





at 00:04, 主義者Y, 旅の写真

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ベルリンへ

ポズナンの駅で、無料の接続サービスを使って書いています。
ベルリンへの切符を無事に買えました。このあと移動します。

ポズナンには1956年の蜂起記念碑があります。
同じ年、スターリン批判とハンガリー動乱もありました。
それらをきっかけに日本の新左翼運動も生まれました。

そんなことで、なんとなく行きたくなりました。
記念碑の写真はスマホからでないと投稿できません。
これを書いているのはタブレットからです。
スマホはもうすぐ電池がなくなります。
ベルリン行きの列車で充電できるといいのだけど。

それでは、また

at 23:58, 主義者Y, 旅の写真

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先月はマレーシアへ

2月の上旬に3泊4日で、マレーシアのランカウイ島へ行ってました。
「何もしないぞー!」という決意のもとに。






それでも、生まれてはじめてのシューケリングツアーに参加してしまったのでした。

at 11:31, 主義者Y, 旅の写真

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明けましておめでとうございます

パリも新年を迎えました。皆さま今年もよろしくお願いいたします。

at 08:19, 主義者Y, 旅の写真

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よいお年をお迎えください

只今、ジュノービーチの波打ち際を歩いています。今夜パリに移動して、そこで年越しをします。こちらは時差で日本より8時間遅いですが。

皆さまよいお年をお迎えください!

at 22:07, 主義者Y, 旅の写真

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ペガサスブリッジに来ました

D-dayの未明、イギリス軍のグライダー部隊が降下した場所です。
上陸地点の東側に流れるオルヌ川に架かる橋で、ドイツ軍の援軍を防ぎ止めるためには絶対に確保しなければならない橋でした。確かにすぐ近くには沼地が広がっており、グライダーが着陸するには非常に困難だったということがわかります。



(追記訂正)
正しくはオルヌ川ではなく、オルヌ川と平行して西側に流れるカーン運河です。
橋そのものは戦後に架け替えられたもので、当時のオリジナルは橋の東岸にある博物館に展示されています。
私が行ったときは閉館されていて、敷地の外からしか見られませんでしたが。
ちなみに左側の河畔に立つ茶色の二階建ては降下部隊が最初に占拠した建物で、「フランスで最初に連合国軍によって解放された建物である」というプレートがついています。



オリジナルはこちらです。

at 22:25, 主義者Y, 旅の写真

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オマハビーチのアメリカ軍墓地



ここに来るのは二度目なのですが、いつも複雑な気分になります。


戦友でも遺族でもない地球の裏側から来た人間としては、死者の思いを想像する術は限られています。
私なんぞは映画「プライベート・ライアン」とか最近の「フューリー」なんかに影響されてしまうのだけど、つい人間の死に意味付けをしてしまいます。あろうことか場合によっては感動すらしてしまう。

上記の作品は優れているとは思うけど、戦争そのものを否定してはいないのです。

いっぽうでアンネ・フランクの日記などで、連合軍の上陸がナチの支配を終わらせる希望となったことも思い出す。

戦死者への追悼が戦争への動員に作用する「装置」に回収されないよう自分を保とうと思うけれども、それは難しいことなのかもしれません。平和を創ることは葛藤なのです。

at 17:20, 主義者Y, 旅の写真

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オマハビーチにいます



バイユーから一日一本のバスに乗るつもりが結局乗り損ねて、タクシーでヴィエルヴィル・スルメールまで来ました。アメリカ軍が上陸したオマハビーチの真ん前です。写真の右側から二番目の建物が、私の泊まっているアパートメントです。
本来のチェックイン時間より早く着いたので宿に人がおらず、タクシーの運ちゃんが機転を効かして宿に電話して、人が出てきたのでした。これが予定どおりのバスに乗っていたら、もっと早くに着いていてしかも自分ひとりだけだから途方に暮れていたでしょう。宿の人はフランス語オンリーだったし(笑)
タクシーに乗っている間に豪雨も有りましたし、宿の付近には時間をつぶせるレストランもなく、荷物を引きずっているので遠くへも行けず、バイユーにいる間に昼御飯を食べていて良かった!
バスに乗り損ねたことが結局ラッキーでした。相も変わらず自分の旅運の良さに驚いてます(笑)

at 09:49, 主義者Y, 旅の写真

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