日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
新しいウイルスは私たち自身が生み出したもの。
抑制のない欲望が、地球を壊すほどまでに暴走し生み出したものではないか。
かつてないほどの人類の危機は、世界を結ぶ。
それが突きつける苦悩と課題は、私たちに新しい行動を促す。
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補償がないので仕事に出るしかない
(自営業はもちろん、会社員なども勤務を勝手に休むわけにいかない)
↓
感染拡大に対応できなくなった医療サービスを受けられなくなる
通常の医療体制なら助かる人でも命を失う
究極の選択、究極の矛盾はこの方向に収斂していくのではないかと思います。
緊急事態宣言が出て都道府県知事に多くの権限が渡されても、休業要請のためには国と協議をしなければならない。
実質的には国が補償を認めないかぎり、強力な人の移動の抑制はできません。
仕事をせざるを得ない人々が外に出ていけば、接触の「8割減」は不可能です。
貨幣を見かけだけでもかまわないから創造し、現金として速やかにバラまかなければ間に合わないのではないか。
急いでいろんな知恵を出し合い、実行すべき時です。
いろんな齟齬や欠陥が生じたとしても、スピードが死命を決します。
すでに今の時点で医療現場は疲労の限界に達しています。
感染爆発以前に、このままのペースで感染が増えても医療崩壊が起きてしまいます。
それだけは絶対に避けなければいけない!
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一年半ぶりの投稿です。
この間はSNSなど仲間内の世界で時おり書いておりました。
仕事をめぐること、日常の生活、それなりにいろいろありました。
相変わらず世界各地への旅もしております。
新型コロナの脅威が広がっている昨今ですが、久しぶりにこちらに書いてみようと思ったのは
そのことではありません。
「無理が通って道理が引っ込む」ことが当たり前になってしまったこの時代。
あまりにも言葉が無力になっていくと書く気力も失せてしまいました。
しかし、無理がまかり通ると人が死にます。
ウンザリしている間に、数多の人の死を見過ごしてきてしまいました。
2年前に森友問題で文書改ざんを命じられた財務省の方が自死されました。
その報道に接しても、頭の片隅にしまっておくだけでした。
いま、その手記が明らかになり、まざまざと私たちの残酷な社会のありようが突きつけられています。
ウンザリしていることも許されません。
手記 平成30年2月(作成中)
○はじめに
私は、昨年(平成29年)2月から7月までの半年間、これまで経験したことがないほど異例な事案を担当し、その対応に連日の深夜残業や休日出勤を余儀なくされ、その結果、強度なストレスが蓄積し、心身に支障が生じ、平成29年7月から病気休暇(休職)に至りました。これまで経験したことがない異例な事案とは、今も世間を賑わせている「森友学園への国有地売却問題」です。
今も事案を長期化・複雑化させているのは、“財務省が国会等で真実に反する虚偽の答弁を貫いていることが”最大の原因でありますし、この対応に心身ともに痛み苦しんでいます。この手記は、本件事案に関する真実等の詳細を書き記します。
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思いのほか多忙になってしまった8月。いつもは戦争をふりかえる記事を書いていたのですが。
せっかく長崎へ行って爆心地へも行き、原爆資料館をあらためて見てきたので書いておきましょう。
組合の全国大会が終了したあと、会場が平和祈念公園まで近い距離だったので、ひとしきり歩いてまわりました。
私の場合、広島よりは長崎のほうが来る機会が多いので、何度も長崎の爆心地のあたりや原爆資料館は訪れています。
資料館の常設展のほかに企画展でも、写真や遺品のコーナーを見てきました。
今回と、前回の記事でものせた写真は、資料館の企画展示で見たものです。
しばらく、これらの写真の前で釘付けになって見ていました。いったん資料館をあとにしてから、じつは翌々日に
どうしても気になってもう一度資料館を訪れ、カメラにおさめました。
写真の説明書きによれば1948年〜1949年ころということですから、碑のまわりで遊んでいる子どもたちは
戦争中の生まれということになります。原爆投下のときには、彼らはどこに暮らしていたのでしょうか。
少なくとも写真を撮られたときにはこの近在に住み、「原子爆弾落下中心地碑」のあたりを日常の遊び場所としていたのでしょう。
彼ら自身が被爆体験があるのか、友達や家族が犠牲になったのか、そうでないのか、まったく定かではないけれど、
その場所が、人間の肉体を蒸発させてしまうほどの熱戦で焼き尽くされた地であることを知っていたと思います。
小高い土盛りがしてある塔のまわりで無邪気に遊ぶことは、そこがどんな場所であろうとも子どもの特権でありましょう。
まだGHQの占領下にあるもとで、被爆の実相を広く人々に知らしめることが許されなかった時代です。
それでも昨日のごとく、その日が語り継がれていた時期でもありました。
夏を思わせる子どもたちの服装と晴れた青空が、原爆の落ちたその日につながります。
写真に映っているいる子どもたち。彼らこそ戦後教育の第一世代であり、戦後日本の「平和」を担ってきた世代ではないでしょうか。
戦場から帰ってきた親や兄弟たち、「外地」や「内地」で戦争の辛酸を嘗めてきた大人たちが、この時期たくさんいたはずです。
戦争はいやだ、原爆はいやだ、そんな思いが日本の隅々まで満ちていた時代があったはずです。
戦後が70年も過ぎて
忘れているのではないでしょうか。この私も含めて。みんな忘れているのではないでしょうか。
私たちは、心のどこかで高をくくっていませんか。遠ざかってしまった日々のことを。
それは「いま」を知ろうとしない諦めと無関心に通じる。
生きている 生きている 生きている
バリケードという腹の中で
生きている
毎日自主講座という栄養をとり
“友と語る”という清涼飲料剤を飲み
毎日精力的に生きている
生きている 生きている 生きている
つい昨日まで 悪魔に支配され
栄養を奪われていたが
今日飲んだ“解放”というアンプルで
今はもう 完全に生き変わった
そして今 バリケードの腹の中で
生きている
生きている 生きている 生きている
今や青春の中に生きている
なんて詩を読んでピン!とくる人はいいね。
ブログはだいぶんご無沙汰しておりますが、熱量は決して下がってはおりませぬ。
安田講堂前の集会に日大全共闘が到着して、彼らを迎え入れる学生たちがサアーっと左右に分かれて場所を空ける光景に
涙ぐんで回顧した元日大生の人の姿を忘れない。