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海の沈黙2010.03.16 Tuesday
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東京の岩波ホールでは今週金曜日で終わってしまいます。我ながら、もっと早くに見に行って紹介文を書けばいいのに。(−−;)
岩波ホールHP
ナチス占領下のフランス。ドイツ軍将校のために自宅の部屋を提供させられた老人とその姪は、彼に対して沈黙の抵抗を続ける。礼儀正しく知的で誠実である間借り人に対して沈黙を守り続けることに二人は次第に心を痛めるが、決して言葉を交わすことはしない。ドイツ人の将校は心底からフランス文化に憧れており、毎晩のように二人のもとに訪れては自分のフランスへの思いを語る。
そうした日々が半年も続き、将校は休暇をもらって念願のパリ訪問に出かける。しかし、そこで再会した彼の仲間たちはフランス文化への敬意どころか、敵の勢力を根こそぎ叩くために精神の破壊をこそ徹底して押し進めるべきだとして、彼の思いを嘲弄する。打ちのめされて帰ってきた将校はしばらく老人とも姪とも顔をあわせなかった。
ある夜、老人と姪のいる部屋をノックする音に、ついに老人は「お入りなさい」と声をかける・・・
こんな粗筋を読んだだけで、見に行きたい!と思っていたのですが、じつに味わいのある良い映画でした。
最後に姪が、将校のほうを向いて視線を合わせ「さようなら」とつぶやく場面は切ないです。セリフはたったひと言なのに、そのひと言のなかにどれだけの想いが込められていることか。
恥ずかしながら「抵抗文学」というジャンルには全くふれてこなかったので、原作者のヴェルコールの名にも馴染んではいませんでした。こういう作品がまさにナチの占領下に書かれ、地下出版され、人々に読まれていたとは!この映画自体も1947年の製作ですから戦後2年しかたっていない時期なのですね。
昨年見に行って深く感銘を受けながらエントリーに書いていなかった「いのちの戦場−アルジェリア1959」なども思い出していました。最近の朝鮮高校排除のこととか、沖縄の普天間基地撤去のこととか、パレスチナの抵抗のこととか、いろんなところに思索は跳んで結び合っています。今はまだ、うまく整理して書けませんが。
「邪悪な命令に従わぬ兵士が良い兵士である」というアナトール・フランスの言葉を贈られた将校が、その後どうしたかは描かれてはいません。ただ、いまの私たち自身が、このドイツ人将校の位置に多かれ少なかれ立場を重ね合わせているのではないかとも思えるのです。
抵抗に向き合ってその高らかな声に戸惑う者、声にならない言葉に耳を傾ける者、抵抗されていることにすら気づかない者、私たちはいろんな主体にまたがっています。諸個人のあいだでも、ひとりの人間の内部でも。
行為すること・しないことの選択は「わたし」にかかって、そして時代をめくる。
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高校無償化から朝鮮高校を除外するべきではない2010.03.12 Friday
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日本社会で生きていくための教育を受けている高校生を除外するのは、おかしくないでしょうか。
実質的に日本の大学で学べる程度の学力を身につけるカリキュラムがあるのなら、それを「高校」と同じに見立ててもいいではないですか。
そのほかに余計なことを教えている、怪しからんことを刷り込んでいる、といった議論は枝葉です。
日本社会で生きていける、日本で働くことのできる、上級の教育機関で学ぶことのできる、そういう教育を受けられるのかどうか、のみがメルクマールです。
民族教育のできる教育基本法1条校が普通にあるべき(僅かに認められた事例はあるようです)でしょうが、そういう選択をできない少数民族生徒に、更なる一方的な不利益と屈辱感を押しつけるものです。
以上
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水曜日に金曜日を読む2010.03.10 Wednesday
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きょうは3月10日。歴史の記憶を大切に思う立場からは、すぐに思い出すのは東京大空襲。
数年前までは、ただ単に第二次世界大戦のひとつの記憶にすぎなかった。しかし、「記憶」は現在を生きる者のまなざしによって新しくなっていく。もう10日を足すと3月20日。日が近いせいか、毎年ついつい、この二つのメモリアル・デーを繋げて思い起こしてしまう。
7年前の3月20日、アメリカ軍の巡航ミサイルが次々とイラクの各地に落下し始めたというニュースを聞いたときの悔しさと情けなさを忘れない。
忘れないということも闘いだ。私たちの政府はあの戦争を容認し、支持を与えた。大量破壊兵器を独裁者が使うのを防ぐため、という大義名分を掲げて。それはどうなってしまったのか。今はもうどうでもいいことなのか。ウソをついた者は咎められることもなく、今ものうのうと平穏な日々を送っている。
それが許されるというのなら、過ちだったとも認められないのなら、この先も同じことが繰り返される。
枯葉剤を撒いたことが過ちでなかったのなら、ウラン弾を使い続けることもできる。
「密約」で国民を欺いた者が糾弾されないのなら、為政者は今後も同様の「密約」を安心して結ぶことができる。
石川文洋氏のベトナム戦争写真展を見た米兵は、「えっ、自分の国はこういうことをしていたのか」と言う。そういう兵士がイラクへ、アフガニスタンへ行き、同じように人を殺す。
そういうことはどうでもいいの?そういうことを何も反省しないで、日米「同盟」とやらが崩れるのが恐くて、沖縄に基地を押し付け続けるの?
もうやめようよ、そんなこと。
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E・トッドを読む2010.03.01 Monday
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津波警報で日本じゅうが大騒ぎしていた一日、家で寝転びながら読みふけっていた。既読の人からすれば「今さら」と笑われてしまうのだろうが、久々に知的な興奮を覚えながら読み切った。識字率の向上と出産率の低下(前近代的な家族制から解放された女性の自己決定権の向上、とでも言い換えていいのだろうか)という切り口から、現代の世界を俯瞰して見る方法はじつに刺激的で説得力を感じる。イデオロギーの暴風=コトバを媒介とした暴力への大衆動員は、たしかに識字能力を最低限充足した一定の教育水準を前提としなければあり得ないし、深くその傷痕を残したあとに成熟した民主主義へ移行していくというのも、大きな傾向性として首肯できるような気がする。かつての日本軍国主義、ヨーロッパのファシズム、世界の1/3を席巻したスターリニズムもそうだ。(あるいは急進左翼運動へのシンパシーを寄せた自身の内面史を辿ってみても・・・汗) 現下のイスラーム原理主義の展開も同様の文脈で眺めていくと、巨視的には大きな流れの経過点と捉えることもできる。こういう発想で考えたことはなかったので、じつに驚いた。意地悪く個々の誤りを指摘すればツッコミどころも多々あるかもしれないが、この直感的なパースペクティヴを基盤に大いに議論すれば、かなり創造的な成果が得られるような予感がする。
私の勉強不足なんだろうけど、サヨクな業界のなかではそれほどE・トッドという人は話題になっている印象を受けないのだが、どうなんだろうか。
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もうひとつの89年と「08憲章」2010.02.18 Thursday
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「日本の知識人に問う」
「中国と日本の間でマージナルな位置にある私はは考えさせられる。一方で、親中派や左派は、侵略の歴史に後ろめたく、また社会主義国の最後の砦として中国を擁護していて、他方で、右派でも経済優先の人は中国政府の思惑に従うようにしている、と。このように、日本では左派と右派が政治やイデオロギーの違いを超えて中国政府を容認する構造が形成され、中国批判は反中国の右翼というレッテルを貼られるようになっている。そうしたレッテル貼りから脱却し、右であれ、左であれ、隣国の現状を日本の知識人に正視していただきたい。政治的に独立することは政治に関して発言しないことではないはずである。政治的に独立した立場で、現在の中国の政治について考え、発言していただきたい。」(編者・劉燕子)
本書の帯に書かれていたものである。
昨年はベルリンだ、グダニスクだ、ブカレストだ、ヨーロッパ・ピクニック計画だ、と呑気に1989年回顧ツアーをくり返していた私は冷や水を浴びせられる思いがした。あの天安門事件を自分は忘れていたのではなかったか。その証拠に「劉暁波」という名も「08憲章」という存在すらも私の念頭にはなかった。安くはない値段だったが、帯の紹介文に心を掴まれた私は、恥じ入るように即決して本書を購入した。
本書に掲載されている劉暁波の詩「記憶」から
誰だ。偶然に撮ったのは。
戦車の前に立ち
手を高く上げて振る若者
全世界を感動させた
だが、戦車の砲口の他に
彼の顔をはっきりと見た者はいない
彼の名を知る人もいない
その後の、その後の、
彼の行方はまったく分からない
彼のために涙を流した世界も
彼を探す気をなくした
私も「彼を探す気をなくした」世界の一員だったのだ。
劉暁波は滞在先のアメリカから、天安門広場に集う学生・市民たちのもとへ急遽帰国し駆けつけた。それは中国政府が既に民主化運動を「動乱」と決め付け、軍事的に弾圧する意思を表明したあとでだった。危険が予想されながらも、敢えて彼は現場に立つことを選択したのだ。学生たちのハンストに合流して非暴力的抵抗を導き、6月4日、広場に迫った戒厳部隊と交渉して、殺戮の直前に学生たちを撤退させたのだった。
ボンヤリと記憶していた彼の名をあらためて思い出したのは
<中国>反体制作家、劉被告の懲役11年判決確定
というニュースを目にしたからだった。たまたまだったのだろう。なぜならその前の身柄拘束も「08憲章」のことすらも私の認識には全く刻まれていなかったから。つまりは無関心だったのだ。
本書をつうじてはじめて「08憲章」の中身を知った。中国における民主化運動の脈々たる流れの存在に気がついた。世界中の民主と自由を求める人々は知るべきだろう。この憲章こそは中国の民主化を求める人々の結集点になる。日本のマスメディアすら無視する「08憲章」を知るべきである。かつてチェコスロバキアのビロード革命を準備した「憲章77」のように、それは必ず中国の民主化を開く扉となるだろう。
内容としては「民主主義国家」に暮らす我々には当たり前のように見えるかもしれない。しかし、このような理念が血肉化された隣国がしっかりと実現するならば、東アジアの国際環境は平和に近づき、私たちの日本国憲法の条文も生きた現実として蘇るであろう。
以下に「08憲章」の全文を引用する。
(引用元は↓のURL)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2
これを起草した「罪」で、劉暁波は11年の懲役刑を科せられる。
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再び紋別2010.02.14 Sunday
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寒い。
紋別流氷まつり。夏も冬も自衛隊のご協力です。地方のイベントには、やはり欠かせない存在なのでしょうか。
…にしても、こんなとこまでアメリカ国旗を掲げなくても。
北海道自衛隊にはきっと氷雪建築の研修課程があるにちがいない。
ふだんの心がけが良いせいか(笑)なんとか流氷を見ることができました。紋別沖に船で30分。約一時間の行程の観光船なので流氷域を航行したのはやっと5分ほどでしたが。実際に来てみて知ったのは、流氷の位置は毎日変動していて、ある時期に必ず見られるとは限らないとのこと。
ああ〜すっかり物見遊山の旅だ(´Д`)
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ヨーロッパピクニック計画 その42010.02.11 Thursday
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大晦日の話をなんで今ごろ書いているのかと訝しみながら「その4」
さて国境方面から、またバスに乗ってショプロンの町に戻ってきました。帰りのバスで再会した青年と町の中心部までいっしょに歩いてきて「ではお元気で」と別れました。私はウイーンへの帰りの列車時刻がちょうどよいタイミングで間に合いそうだったので、歩みを速めて駅へ向かいました。
駅舎内に飛び込んだら、ほとんど発車時刻です。あわてて正面の階段を下りて、ウイーン行き列車の発車ホームに走りました。

ところが・・・4番線までしか地下道がない。行けない! えっ?えっ?
焦ってもとの場所に戻り、違う入り口からぐるっと回って別の地下道から行き、目当てのプラットホームに駆け上がったのですが、既に列車は行ってしまったあとでした。虚しい・・・
徒労感を覚えてまた駅のホールに引き返すときに、やっと駅の構造の謎が解けました。
そう、ここは「国境駅」なのです。今でこそパスポートコントロールも何もなくフリーで通り抜けられますが、かつては「鉄のカーテン」の最前線駅ではなかったですか!
私が最初にもぐり込んだ地下道は、ハンガリーの国内線のプラットホームに通じるものだったのですね。そういえばこちらの地下道への通路のほうが、なんとなく壁で仕切った空間で人の流れを誘導しているような構造でした。
シェンゲン協定に加入してから少しは年月がたっているのだから、ちょっとは改修してほしいな・・・
時間が余ってしまったので駅構内をブラブラ。やはり89年がらみのポスターがありました。
このへんは対オーストリア国境の鉄条網や監視所の撤廃の写真ですね。
呑気に次のウイーン行き列車を待っていたら、自分の予期していた時間になっても何の案内表示もされません。不審に思って駅の時刻表を眺めてみると「12月31日は除く」と注意書きが書いてあるではないですか。
ウキーっ!
それで間抜けなことに1時間待って、やっとウイーン近郊行きの列車に乗り込んだのでした。
ふたたびプラットホームにのぼってみると、くだんの日本人青年と三度目の邂逅。
「いやあ、また会いましたね」
まるで運命の赤い糸で繋がっているようですorz
まあ、おかげで退屈せずにウイーンまでの帰路を彼と話しながら戻ってまいりましたが。
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ヨーロッパピクニック計画 その32010.02.07 Sunday
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国境をオーストリア側へ越えると、わりと近くに駐車場がありました。
そこへハンガリー側から車が1台走ってきました。
おおおおおお! トラバントではないか! フェルトゥ・ラーコシュの町で見かけたあのトラバントか?町の住人のトラバントなのか、あるいは訪問してきた人が乗ってきたものなのか?こういう旧東西の国境で見るというのもすごいタイミングだ(笑)
駐車場の一隅に、なにやら案内板らしきものが。
金属製のページをめくると、中の一項には1956年のハンガリー蜂起のことが書いてあったのでした。このときも国境を越えて大量のハンガリー難民がオーストリア側へ流れ込んだのです。そういえば・・・1989年のことばかり気にかけて、すっかり1956年のことに思い至らなかった自分の迂闊さに反省しました。
オーストリア・メルビッシュの町です。バス停を見つけたので時刻表を見に行きました。
下調べでメルビッシュ側からもウイーン行きのバスが出ていることはわかっていました。時刻によってはこちら側から帰ることも考えていたのですが、17:35まで便がありません。1時間半もこの寒い場所でじっとしているわけにもいかないし、カフェのような入れる店も何にもないのでハンガリー側へ引き返すことにしました。
道端に止まっていたバス。これが路線バスなのでしょう。時間の早い便で途中の鉄道駅まで行けたのかもしれませんが、よくわからない土地での無理はしないことにしました。
ふたたび無人の国境。ふたたびハンガリーよ、こんにちは。
イヌを連れて散歩している人がいました。毎日国境を越えて散歩してるなんて、いいなぁ。
・・なんて悠長なことを思いながら歩いていると陽が傾いていきます。街灯がない夜道を歩いていくのはちょっと嫌なので焦ってきました。
フェルトゥ・ラーコシュのバス停にたどり着きました。まもなくやって来たバスに乗り込んだら「ああ、どうも!」と声をかけられて仰天。来るときに一緒だった日本人青年でした。彼は彼でフェルトゥ湖まで無事に行って帰ってきたそうです。
その4へ
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ヨーロッパピクニック計画 その22010.02.07 Sunday
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あ〜あ〜「その1」を書いてから一ヶ月もたってしまいました。
フェルトゥ・ラーコシュの終点バス停から少し来た道を戻ると、観光名所にもなっている採石場があります。大晦日なので中に入って見ることはできませんでしたが、敷地内の小高い山の上に鉄条網を切った形のモニュメントが見えたので望遠で撮ってみました。たしかにここは「ヨーロッパピクニック」の舞台であったのです。

これも1989年を記念するモニュメントのひとつ。この向こう側の方向へ私は歩いていきました。「その1」でも書いたように、それは間違った道であったのですが・・・

その先の道沿いにもこんな碑があったので、私は信じて疑わなかったのでした。
国境注意の看板。上がマジャール(ハンガリー)語で下はドイツ語の標記です。白く消された部分には検問所の開いている時間が書かれていたのでしょう。
この先のどかな道が続きます。
誰にも会いません。
ブタだ!その向こうに見えるのはノイジードラー(フェルトゥ)湖だ!

この湖は世界遺産にも指定されているそうです。行きのバスの中で会った日本人青年はこちらを見に行ったのでした。私は間違った道を歩いてきてしまったのですが、景色はたいそう素晴らしかったです。まさにピクニック。
バス停から歩くこと約1時間。ここがハンガリー・オーストリア国境です。看板には「さようなら!」とマジャール語・英語・ドイツ語で書かれています。
これはちょっとふり返った角度のハンガリー側検問所。今は無人です。
そしていよいよ国境をまたいでオーストリア側へ。
これはハンガリー側。
オーストリア側検問所も無人です。このあたり誰もいません。
その3へ
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台湾島最南端とウィーンの年越し2010.02.05 Friday
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ふたたび筆不精状態です。
動画二つで誤魔化します(笑) 一つ目は台湾島最南端。高雄からさらに3時間バスに乗って行けます。
2月にもなって今さらなんですが。ウィーンでの年越しの瞬間です。
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